第4章 本田幸一 〜 4
4
――二度とわたしの前に、顔を見せないで頂戴。
通夜で耳にしたこの言葉のせいで、彼は毎年明け方近くに訪れていた。
駐車場に着く頃は、いつも辺りは真っ暗だ。
その後三十分くらいで、天気さえよければ太陽がゆっくり昇り始める。そうなってやっと、線香と花を手にして車から降り立った。
そうして多少遅くなっても、七時には自宅に帰り着ける。
だから病院を休まずに済んでいたし、そうやってこの二十年近く、毎年この日を同じように過ごした。
ところが今年に限って、彼は大寝坊をしてしまうのだ。
前夜の呑み過ぎが祟って、目覚めた時すでに朝の七時を回っている。
どう考えても診療開始には間に合わないが、行かないという選択などありえなかった。
だから病院事務方へメールを送り、今日一日休ませて欲しいと連絡を入れる。
父の代から世話になっている老練の医師に代わりを頼み、彼はいつもより三時間遅れて到着する。そして墓に手を合わせ、線香の香りから逃れるように立ち上がった時だ。
突然、背後から声が掛かるのだった。
「やっぱり、あなただったのね」
慌てて声のする方に目をやると、その先に白髪の女性が立っている。
「本田さん……本当に、お久し振りです」
そう言いながら、女性は深々と頭を下げた。そして幸一は見た瞬間に、それが誰かをすぐに知る。
「毎年、きれいなお花をいただいて……ずっとね、あなただろうって思ってたのよ。だから去年は朝九時に来てみたんだけれど、やっぱりお会いできなくて、だから今年はね、さらに一時間早く来てみたの。そうしたら、やっと会えたわ……」
ゆっくり幸一に近付いて、そう言ってから嬉しそうに微笑んだ。
それから少しだけ顎を引き、目の前で再び頭を下げる。
――二度とわたしの前に、顔を見せないで頂戴。
そう告げた頃の憎しみの色は、今や彼女の顔からは消え去っていた。
その代わりに、深く刻まれた皺が妙に目立って見えるのだ。
きっと背負い切れない悲しみに、ずっと苦しめられてきたのだろう。
幸一の目に映る彼女には、年齢以上の老いが横たわっているように思える。
「あの頃は本当に……なんと言ってお詫びしたらいいのか、本当なら、お礼を言うべきだったって、やっと最近、心からそう思えるようになりましたの」
そんな声にも何も言えず、幸一はただただ己の首だけを左右に振った。
その後、婦人が語ったところによると、彼女の連れ合いが昨年、癌であることがわかったのだそうだ。それから病院での治療が始まるが、彼はある日突然宣言をする。
このままでは癌に打ち勝つ以前に、肉体そのものが立ち直れなくなると、彼はすべての治療を拒むことを決めた。
そして子会社の取締役という職を捨て、自然の中で暮らしていこうと妻に告げる。
「それで今年の春から、夫の生まれ故郷で夫婦二人、暮らしているんですよ」
もちろん、いつまで続くかはわからない。ただ今のところ彼女の連れ合いは、そこそこ元気を取り戻し、近所にある自然を大満喫しているらしい。
「そんな主人を見ていて、わたし、やっと解ったんです」
そう言って彼女は、手にしていた包みを幸一へと差し出した。
「これ、わたしより、あなたが持っているべきものでした。そんなことに気付くまで、二十年近く掛かってしまって……今さら、ご迷惑かも知れませんけど、これ、あなたのお手元に置いてもらえませんか? そうした方が、きっとあの娘も喜ぶと思うんです」
そう言って差し出されたものは、十数センチほどの厚みがあった。
風呂敷に包まれて、本か何かのようにも見える。
彼はそれを黙って受取り、手にある重みをしばし感じた。
――今さら、俺が受取るようなもの……そんなものがあったんだろうか?
そんなことを思う幸一へ、婦人は妙にゆっくりと、そのひと言を付け加えた。
「それ……、あの子の……日記、なんです」
もし、その言葉を聞いてなければ、婦人が去った後すぐに包みを解いただろう。
しかし彼は、それがなんであるかを知ってしまった。
切ないくらいに心揺れていたあの頃、一緒に時を過ごした直美の日記……、そんなものを渡しておいて、
「もしも、お邪魔なようでしたら、捨てていただいてもいいんですよ」
そんな場合は、誰の目にも付かぬようにして欲しいと、彼女は三たび頭を下げる。
その時婦人の顔には、なぜか満面の笑みが浮かんでいた。
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