第3章 矢野直美 〜 3(4)

 3(4)




「何してるの?」

 そんな声が掛からなければ、しばらくその体勢のままでいたはずだ。じっと、動きさえしなければ、見えたとしたって人形か何かだと思ってくれる。そんなふうに思っていたのに、「何をしている」と聞かれて、まさか覗き見していますとも返せない。

 だからすぐそばに立った声の主へ、直美は咄嗟の言葉を返してしまった。

「そう、じゃあその本、わたしが返してきてあげようか? それともその子、ここへ呼んでくる? 」

 そんな声の主は、ここのところ毎日のように現れる村上婦長に他ならない。

「ううん、返してもらえれば、それでいいから……」

「ふ~ん、そうなの?……」 

 村上婦長はそう言って、ほんの少しだけ口角を上げた。そうして窓際へ近付いて、直美の見ていた先へ視線を向ける。

「彼に、返せばいいのよね?」

 そして窓に顔を向けたまま、直美にそう問い掛けた。

 少年が忘れていった漫画本を、直美はナースに頼んで持ってきてもらっていた。

 咄嗟にそのことが思い浮かび、思わず声にしてしまったのだ。

「もしかしたら、違うのかも知れないけど、でも多分、そうなのかなって……それ、サッカー漫画だし……」

 忘れ物の持ち主かも知れない、だから見ていたと直美は言った。

 それからカーテン越しに見守る中、裏庭に現れた村上婦長があの少年に近付いていく。婦長は彼の前に立ち、漫画本を差し出し何事かを呟いた、かと思うと、なんと直美のいる三階辺りを指差したのだ。

 指の先を追うように、少年の視線も直美の方に向けられる。

 ――嘘! 彼に何を言ったの!? 

 途端に鼓動が慌てふためき、それに合わせて身体が揺れた。

 ――まさか……ここに、上がってこないよね? 

 そんな恐れを抱かせるように、院内に消える婦長の後ろをその少年も付いていく。

 それからの数分間は、まさに生きた心地がしなかった。

 ――お願い! お願い! お願い!

 そうならぬよう願っておいて、心のどこかでそうなった場合を意識している。

 しかし本当にそうなったって、何をどうにもできやしない。

 なのに実際こんな時、神様っていうのは本当にいじわるだ。

「彼がね、あなたにお礼を伝えたいって言うから、ごめん、連れて来ちゃったわ」

 病室に入るなりのそんな声に、直美は心臓が止まるかと思った。

「さ、入ってちょうだい」

 婦長の声がそう続いても、直美は婦長を見ることもできない。リクライニングベッドを背にして、まっすぐ前を見つめるだけで精一杯だ。本当なら布団を頭からかぶって、とっとと丸くなってしまいたい。

 ――どうしよう……? 

 そんな直美の視線の隅に、黒っぽい何かが映り込んだ。

 ――黒の……タートルだ……。 

 少年の服装が思い浮かび、直美の心臓はいよいよますます高鳴った。

 その時、病室の入口から覗き込むように、リーゼントの少年が顔を出す。さらに婦長の声に促されて、彼はゆっくり足を二、三歩踏み出した。婦長の横に並び立ち、やっと直美へ視線を向ける。

「あれ?」

 少年が小さく呟いた。

 ――あれって……矢野……? 

 そんな思いに促され、少年は婦長へ顔を向ける。

 すると婦長は彼の耳元へ顔を寄せ、

「とりあえず……〝はじめまして〟でいいんじゃない?」と、囁くように返すのだ。

 

「ねえ……病室に来て、挨拶ぐらいしてちょうだいよ」

 こんな婦長の声に、少年はただただ従っていた。そしてついさっき、二人が病室の前に立った時、時刻は午後一時三十分を少しだけ回っている。そんな時刻を確認し、

「残りの時間、あなた病室にいてくれる? もちろん、あの子が嫌がらなかったらっていう条件付きだけどね……」

 婦長は少年にそう告げた。

 そうして彼は病室に入り、想像もしていなかった再会を果たす。

「はじめまして……」

 なんとか絞り出したそんな声に、やっと直美も視線をゆっくり少年へ向けた。

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