第3章 矢野直美 〜 1 92年夏、そして、冬へと
1 92年夏、そして、冬へと
最初は、暑い夏の盛りだったのだ。
そして今度も数ヶ月にはなるだろうから、退院は冬近くにはなってしまう。そのくらいの覚悟はできていたし、実際担当医も似たようなことを口にしていた。
窓から見える敷地には、周りから何かを守るように大きい樹木が植えられている。それは青々と生い茂り、その下を行き交うのは半袖姿の人々だった。ところがそんな光景は、今はもうどこにもない。生い茂っていた樹木はその身をさらけ出し、人々は皆、昔とは比べものにならないくらいに軽くなった防寒着を身につけている。
――わたしはいつまで……こうしていなければいけないの?
そんな問いへの答えはいつも同じだ。もう少しの辛抱だと、馬鹿の一つ覚えのように響き返る。そうして入院から四ヶ月、クリスマスがもうすぐそこという頃に、直美の辛抱は限界を超えた。
「家に帰りたい! こんなところにいるくらいなら死んじゃいたい!」
大声で叫び続け、結果発作を起こし集中治療室に運ばれていた。
そして数日間の安静の後、彼女が戻った部屋は裏庭に面した病室で、
――きっと、わたしはもう治らないんだ……。
そう思うようになったのも、まさにこの出来事があってからだ。
「直美ちゃん、今日もお昼食べなかったんだって? ダメじゃない。そんなんじゃ治るものも治らなくなっちゃうわよ」
「どうせ治らないんだから……おんなじことだもん」
「そんなことないわよ! 直美ちゃんは治ります。だからお願いよ、ちゃんと食事を取って、しっかり安静にしててちょうだい」
それはすなわち大声など出さずに、ただただ横になっていろということだ。
こうなる前の直美は、両親や婦長である久子の言うことをよく聞いた。ところがここ最近は、何を言っても反抗的で、声を荒げたかと思えば急に口を閉ざしてしまう。さらに久子の発したこんな言葉は、今の直美にとっては導火線にも等しかった。
「治る治るって、もういい加減な嘘は止めて! もう出て行ってよ! 」
言い終わらないうちに、久子の手にあったトレーが弾け飛んだ。プラスチックの食器も宙を舞って、床への落下と同時にけたたましい物音を立てる。
絶対に治る。ここのところ直美は、こんな言葉にあまりに強い反応を見せた
もちろん久子だって知っていたのだ。ところがついそんな言葉を口にして、誰もが何度も直美のことを興奮させた。そうして気付けば、人生二度目の長期入院となっている。
ただ一度目は、手術のための入院だったから、術後日に日に回復する自分を感じることができていた。ところが今回の入院は、何か治療を行うでもなく、ただただ時間が過ぎ去るだけだ。手術後、直美はいろんなことを我慢しなければならなかった。それでも平穏な日々が嬉しくて、些細な葛藤はすべて心の奥底に沈み込ませた。
しかし今や、平穏であった日々は遠くに消え失せ、病室で横にはなっていても、その心はいつも荒波の中を漂っている。
本当ならばとっくに、中学の話が出ていなければおかしいのだ。元々直美は、私立受験の予定だった。当然それは諦めるしかない。となれば、公立中学にいくことになるのか?
そんなことを尋ねても、
「まず今は、病気を治すことだけ考えましょうね」
なんて感じばかりが返ってくる。
――退院なんてできないんだ。みんな、嘘吐くの下手過ぎだよ……ホント、笑える。
そんな感情に押しつぶされそうな毎日が過ぎ、年が明け、何も変わらぬ日々がひと月くらいした頃だった。またまた直美が些細なことで興奮し、
「もうこんなところにいたくない!」
そう叫んだかと思うと、困惑する母親の手を振り切り、病室を飛び出したのだ。
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