第50話 ノアゼットの心
道を行き交う人々はノアゼットを恐れ、避けるように歩いている。そのため、彼女に近づくたびに人の数が減っていく。
道には大勢の人がいるのに、彼女の周りだけ、世界から切り離されたように真っ白な空間が存在していた。
みんなのあからさまな避けように、ノアゼットが寂しそうに見えた。
俺の心に、何かが軋む音が響く。
たしかに、彼女は怖い。だけど、みんなの態度はあんまりだ……。
俺も彼女のそばに近づくまでは、おっかなびっくり歩いてきたけど、その態度が如何に失礼で悲しいことだということに気がついた。
だから、俺は背筋を伸ばして、堂々とノアゼットに話しかける。
「ノアゼット様、どうもお久しぶりです」
「ん? お前は浴場で……たしか名は、ヤツハとか言ったか」
「あ、覚えてくれてたんだ。ちょっと意外」
「何っ?」
「いえ、何でもありません」
眉間に何本もの皺を刻んだ彼女に睨みつけられた。
思わず、すみませんでしたと頭を下げて、逃げ出してしまいそうになる。
しかし、ここは恐怖心をググッと抑え込んで、まずは風呂代のことを尋ねる。
「えっと、あの、俺、以前のお風呂代払っていないんですけど、大丈夫ですかね? 駄目なら、今すぐにでも払いますが」
「そんなことか。私が誘ったのだ。気にする必要はない」
「はい、ありがとうございます」
感謝の気持ちを込めて、精一杯の笑顔を浮かべる。
すると、彼女は僅かに目を開き、すぐにその動作を抑え込むように目を細めて睨んできた。
それは感情の変化を無理やり抑え込むような態度だ。
(不思議な人)
俺は彼女をのぞき込むように観察する。その態度が気に食わなかったようで、彼女は威嚇するように重く低い声を上げた。
「まだ、何か用事があるのか?」
「あ、いや……あっ、そうだ。さっきからここで何をしてるんですか?」
「お前には関係ないことだ」
「まぁ、そうなんですけど……あの、お菓子屋さんに用事でも?」
「なぜ、そう思う?」
「だって、さっきから、ずっとお菓子屋さんを見てるか、ひっ! はうぅ」
この一言に、ノアゼットは大きく目を見開き、メデューサの如く凝視してくる。
全く無関係のはずの街行く人が彼女の威圧に恐れをなし、ある者は逃げ出そうと足を絡め転び、ある者は恐怖に足を掴まれ動けずにいる。
そんなものを真正面から浴びた俺は、棒立ちで音にならぬ声を上げるしかなかった。
そこにパティの声が飛んできた。
「ノアゼット様、お久しぶりです」
「ん? お前は……フィナンシェ家の」
「はい、フィナンシェ家の次女、パティスリー=ピール=フィナンシェです」
「フィナンシェ家の令嬢が何用か?」
「いえ、私の友人が礼儀を欠く振舞いを見せてしまったので、謝罪をと思いまして」
さすがは貴族のご令嬢。
ノアゼット相手でも堂々たる態度をとっている……そう見えたが、微笑みを見せる彼女の唇は緊張に乾き、閉じた扇子の前に重ねる手は小刻みに震えている。
パティは恐怖を抑え込み、己の身を危険に晒しながらも、俺を守るためにノアゼットの前へ出てきたのだ。
昨日会ったばかりの俺に対して、ここまでしてくれるなんて……彼女の優しさと勇気が、胸に沁みる。
(もし、不興を買ったとしたならば、それは俺の非。彼女を巻き添えにするわけにはいかない!)
俺はパティを隠すように前へ出る。
そして、ノアゼットに謝罪をした。
「すみません。俺が無作法なためにノアゼット様の気分を害してしまい。本当に申し訳ありません」
「うん? 別に気分など害してはいないが? お前たちは何を言っているのだ?」
「えっ!?」
「はい!?」
俺とパティはノアゼットの言葉に驚き、顔を見合わせて、次になんて言葉を出せばいいのか、互いに言い淀む。
俺はもう一度勇気を振り絞り、ノアゼットに尋ねてみた。
「さっき、すっごく睨まれた気がしたんですが……?」
「答え難い質問で、言葉に窮しただけだ。許せ」
「はぁ」
(言葉に窮したって、そんなキャラじゃないだろ、あんたはっ)
と、心の中でツッコんだ。
はずなのに、ノアゼットは視線を強め、パティは大きくため息を吐く。
思いっきり表情に出ていたみたいだ。
これはさすがに処断されるなとビクついたが、意外なことに、ノアゼットは言葉を窮した理由を述べてきた。
「友に使いを頼まれたのだが、まさかメモの内容が菓子だと思わなかったのだ」
俺は流れるようにパティへ近づき耳打ちをする。
「使いを頼まれたってっ、ノアゼット様相手にそんなことができるなんて、その友達何者だよ!?」
「知りませんわよ。わたくしはノアゼット様の交友関係を知っているわけじゃありませんし」
「お前たち、何をこそこそしている?」
俺たちは
そして、改めて尋ねた。
「あの、お菓子屋さんを見ているってことは、ケーキやクッキーを頼まれたんですよね。どうして、遠くから見ているんですか?」
「少々、困った事態が……いや、何でもない」
「なんでもないって、いま困った事態って、あぅっ」
ノアゼットの視線が俺の身を貫いた。
これは本気でヤバい視線だ。
隣ではパティが呆れた様子で、俺から顔を背ける。
さすがの彼女も、面倒見きれないといった感じだ。
(いかんいかん、つい、ツッコんでしまった。しかし、なんでこうも人を威圧するかね?)
人にはいろんなスタンスがあるだろうけど、ノアゼットのように周囲に恐怖をばらまくような態度を取る必要はないと思う。
だけど、彼女は依然として圧迫感を身に纏っている。
ノアゼットは俺に向けていた切っ先鋭い視線を緩め、お菓子屋さんへ向けた。
俺も視線に誘われるようにお菓子屋さんへ目を向ける。
正面にあるお菓子屋さんには大きなガラス窓があり、店内の様子がはっきりとわかる。
店内では親子と見える女性と幼い男の子がケーキを選んでいた。
男の子はなかなかケーキを選ぶことができず、ずっと悩んでいる様子。
お母さんは早く決めるように催促しているけど、そのたびにぐずってショーケースに並ぶケーキをじっと見ている。
お母さんは困りながらも、まるで
それは、とてもとても心暖まる親子の光景。
(でもなぁ、男の子よ。早く決めないと、ノアゼットが来て、ケーキを悩むどころじゃ……あれ?)
ここで、俺はあることに思い当たった。
(あれ、あれあれ? ノアゼットが来たら、男の子は泣くよね。お母さんは畏まるよね。そしたら……あの、暖かな光景は……えっ、まさかっ!?)
俺はノアゼットの目を見る。そして、すぐさま彼女の向ける視線の先を目で追った。
ノアゼットはお菓子屋さんではなく……親子を見ているっ!
(この人、親子の団欒を邪魔しないために、ここで待っているのかっ? だとしたらっ、めちゃくちゃいい人じゃん!)
ノアゼットの困った事態――それは親子を思う彼女の優しさゆえに起きたこと。
そうと知った俺の胸は、トクンと高鳴りを見せた。
(やだ、この人。可愛いかも……)
失礼な話だけど、ノアゼットは俺の趣味ではない。
しかし、異性を感じる時と同じ感情が俺の心を巡った。
目の前にいるのは強面の
そう思うと、愛おしくて仕方がない。
そうであるのならば、やるべきことは一つ。男として、彼女の助けになるべきだ。
「あの、ノアゼット様。俺たちが頼まれものを買ってきましょうか?」
「何?」
「ちょうど、パティとあの店に行くところなんです。どうでしょうか?」
理由は問わず、ただ協力を申し出る。
問えば、彼女はそれこそ言葉に窮してしまう。
だから、聞かない……。
ノアゼットは目を閉じて、僅かに首を縦に動かす。
「ならば、頼もうか」
彼女は懐から友人のメモをとりだして、俺に手渡した。
「はい、頼まれました。じゃあ、すぐに終わらせてきますから。パティ、行こうぜ」
「え、ええ、そうですわね」
急な出来事に呆気にとられるパティの手を無理やり引っ張って、お菓子屋さんへと向かっていった。
ちゃっちゃとメモ帳に書かれた品名のお菓子を購入して、俺とパティもそれぞれケーキを選び、店を出る。
そして足早にノアゼットの元へ戻った。
「はい、ノアゼット様」
「う、うむ、礼を言う」
「いえいえ」
彼女は顔を顰めながら、少し戸惑った態度を取る。
少し前なら、そんな態度に恐れをなしていたが、今では愛らしく感じる。
だって、この人の優しさを知ったから……。
ノアゼットはキノコ柄のプリントが付いた袋をぶら提げる。
さすがにギャップの差があり、ちょっと吹き出しそうになったけど、ここは我慢。
彼女は恭しく、頭を下げる。
その姿勢は、見ている者の心の規律までも正す、心地の良いもの。
「二人とも、世話になった」
「いえ、大したことじゃないですよ」
「え、ええ。どうか、ノアゼット様、あ、頭をお上げください」
パティは緊張のあまり、声が上擦っている。
しかし、それは仕方のないこと。
ノアゼットほどの女性から礼を言われれば、誰だって畏まってしまう。
だけど、俺はあくまでも自然体で彼女と向き合う。
「それじゃあ、ノアゼット様。また、機会があれば」
「……うむ、そうだな」
俺が手を振ると、彼女は小さく頷き、白い外套を風のように翻して後ろを振り返る。
振り返る瞬間、俺の目には、彼女の口元が緩んでいたように見えた。
ノアゼットの背中が完全に見えなくなったところで、パティが俺の頭に扇子を落としてきた。
「もうっ」
「いたっ、何?」
「何、じゃありませんわよ。あなたのせいで寿命が何年がなくなりましたわ」
「あ~、わりぃわりぃ」
「ふぅ~、ノアゼット様相手によくまぁ、そんな軽口が叩けたものですわ。ふふ、あなた意外と、大物なのかもしれませんわね」
「ふっふっふ、まぁね」
「調子に乗らないで下さる。まったく、ノアゼット様のご機嫌次第では、ヤツハさんもわたくしもどうなっていたのかわからないんですから」
「どうもなってないよ」
「え?」
「どうもならない。だって、ノアゼット様は優しい人だもん」
「優しい?」
「うん、優しい人。俺、彼女のファンになったかも」
俺はノアゼットの影を追いながら微笑む。
(人は見た目じゃないんだな。フォレもパティもノアゼットも……心に宿す思いは外からはわからない。アプフェルは……あいつは素直でいいやつだっ、うん)
――とまぁ、なんであれ、無事にケーキをゲットした俺たちは、それらを味わいご満悦でした……で、終わりたいところだけど、話はこれで終わらない。
これらのやり取りが奇妙な誤解を生んだ。
俺はノアゼット相手に、対等に話をしていた。
そう、街の人たちの目には映ったようだ。
そこに様々な情報が味付けされ、
そんな噂が、わずか一日で王都中に広まった。
SNSも存在しない世界なのに、口コミ恐るべし。
てゆーか、侠客ってなんだよ? ひどい味付けだ!
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