七十一 拓くもの
洞穴の出口は、切り立った崖の上にあった。
眼下には萌える新緑の森が横たわり、視界を遮るものは何もない。
その拓けた視界の遥か向こうを臨み、白星と星子は揃って息を呑んだ。
見渡す限りにどこまでも広がる、抜けるような青一色が彼方を埋め尽くしていたのだ。
青い面は果てがなく、遠く空との境界線で緩い湾曲を描いている。
白星はもちろん、星子さえ見た事のない雄大な景色であった。
「すごい……なにこれ……」
思わずこぼした星子の呟きに、白星が己も確認をするように答えた。
「あの青きの果てが、水平線というものであろうな」
「すいへい、せん?」
理解が追い付かず、目をぱちくりとさせる星子の下で、打猿がこりこりと頭をかいた。
「ありゃあ。流石に姉御は知ってたかい。山育ちっていうから、見た事ねえと思ったのによう」
残念がる打猿だが、白星は即座にかぶりを振った。
「いや、ぬしらの企みは見事に成功よ。わしはたまたま最近、熊野の文献にてその存在を知ったばかりでの。実際目にするのはこれが初のこと。正直、これほどとは思わなんだ。まさしく度肝を抜かれたわ」
「へっへっへ。それなら見せた甲斐があらぁ」
「ねえ、すごいのはわかったけど。結局なんなのあれは?」
知識あるもの同士で進む会話に入れずに、星子が膨れっ面を晒す。
「ここまできて、もったいつけても仕方なかろ。よいか星子。眼下に広がる青一面。あれらは全て塩水で満ちておる。ここまで言えば、ぬしも察しがつこう。即ち、あれが海なるものぞ」
「海!? あれが全部!?」
星子も座学の中で、その存在だけは学んでいたが、如何せん山深い里の中ではついぞ目にする機会のなかったものだ。
この小さな島国を覆う、行けども行けども果ての無き広大な水溜り。
そう聞いて想像を膨らませるしかなかったものが、唐突に目の前一杯に広がっている。
そのあまりの衝撃に、星子は寸時我を忘れ、下手をすればしゅわりと昇天しかけるところであった。
「……おっきいなあ……あれが全部水だなんて、こうして見てても信じられない」
多少の落ち着きを取り戻しても、未だに興奮が収まらず、星子はたまらず呟いた。
須佐の里にあった溜池は、一番大きなものでさえ、星子が全力で泳げばすぐに向こう側に着いてしまう程度の大きさだった。
それがどうだ。
里の水田の用水を全てかき集めようが、まるで足りぬであろう。
圧倒的な規模を誇る海を前に、星子は感動に浸る事しかできなかった。
これまでは土地こそ移れど、陸続きで山中での行動が多かったが、海という異境の神秘を見た事で、己が外界に出たという事実を改めて強く認識したのだ。
「これなる絶景を前に、呑まぬは損よな」
白星は徳利片手に、ひょいひょいと手近な岩場を飛び移り、特等席を見付けて杯を傾け始めた。
「そう言って、出発してからずっと呑んでるじゃない」
「かか。よき酒は、いくら呑もうと飽き足りぬものよ」
「だっはっは! 違いねぇ! ここらは人家がなぐて安全なはずだ。ちょっくら休憩といぐかあ」
「賛成、賛成だ! おれは風流ってのはわがらんけどよう、熊野の酒がうまいのはわがるぞ!」
「うむ。うまいと思うものを、存分に呑む。それで十分よな」
酒豪三人はそれぞれの杯を掲げ、思い思いに呑み始めた。
「もう! なんで私の回りはのんべえばかりなの!」
にわかに始まった酒宴に、星子がへそを曲げる。
霊体とは言え、幼き星子にとって酒精はまだ強く、少量でもすぐに睡魔に襲われてしまう。
そのため土蜘蛛御殿の宴席でも、
今日は代わりになる物がなく、手持無沙汰になった星子は、周囲を探索してみる事にした。
近頃は霊格が少し上がったものか、お守りから多少離れて活動する事ができるようになっていた。
霊体であるのを活かし、ふよふよと高所まで浮かんで行くと、先刻出てきた洞穴の入り口から、崖へ張り付くようにして細い下り道が伸びているのが見て取れた。
何気なくその道が下ってゆく先を眺めていくと、ふと違和感を得た。
よくよく目を凝らしてみると、なんと人が登ってきているではないか。
打猿達は、常人が使うはずのない廃道だと言っていた。
しかし眼下には、確かに大きな
見た感じでは、商人だろうか。
まだ若そうな男に見えるが、この
「ええと、ええと。ど、どうしよう。ああ、そうだ、白星達に報せなきゃ」
これまで白星頼りで、自分で決断を要する場面の少なかった星子は、焦りながらも最善策と思われるものを選び、急降下をして皆の元へ戻る。
「それはまことか」
報告を聞いた白星はすぐに真顔になり、星子に尋ね返した。
「うん。何度も見たし、間違いないよ。こっちへ登ってきてる」
「ふむ。土蜘蛛の知らぬ間に、出入りする商人がおってもおかしくはないか?」
「いんや、さっきも言ったがここらにゃ人家がねえで、商売には不向きなはずだ。それに、通って来てわかったと思うが、この洞穴は悪路だしな。通行にも難儀すっぞ」
白星の質問を、国麿は真向から否定した。
「なれば常人ではなかろ。どこぞの草かも知れぬ。隠れてやり過ごしたいところではあるが……」
大土蜘蛛二人を見やり、白星が苦笑する。
今から二つの巨体に隠形術を施すには、とてもではないが時間が足りまい。
周囲は禿げた崖っぷち。身を隠す木々もない。
「仕方あるまい。ぬしらは星子と共に洞穴の中へ隠れておれ。わしが残り、隠形をもって様子を見る」
「わがった。気いづげでな」
「無理しないでね」
白星の指示を受け、三人が姿を消すと、白星は己の妖気を一瞬で収め、ただの小娘の隠形をまとい、その上で完全に気配を断った。
それが済んだかどうかという頃。
崖下の砂利を踏む音が、確かに響き始めていた。
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