五十四 宿すもの

 敵を目前として、何もできずに逃げ帰る事しかできなかった熊野芦名は、馬を駆りながら自責の念に囚われていた。


 しかしその直後に起こった惨状を見て、撤退が正しい判断であった事を思い知る。


「何なのだ、あれは……」


 木々の隙間から覗く、巨大な二体の化け物が争う狂騒が、離れたこの山道までも響いていた。


 遠目に見ている今、まるで夢の中にいるようにすら思える光景である。

 あの場に留まっていたならば、全員まとめて引き潰されていた事だろう。


「今は龍の形と変じたあの光……拙者には、本宮辺りから出現したように見えました」


 芦名の馬を無理に退かせた古参の副官が、慄きを抑えながらも呟いた。


「お前もか。あの娘が言う通り、熊野が龍穴の化身であるならば、これは一大事よ」


 それに答えた芦名は、己の言葉にはっと息を呑んで馬の速度を上げた。


「こうしてはおれぬ。巫女の元へ急がねば!」

「はっ、お供致します。半数は町へ降り、必要あらば民を避難させよ!」


 芦名の意を汲んだ副官は残りの兵へ伝達すると、兵らは二手に別れ、それぞれの目的地を目指す。


 度々激震が襲う山道をなんとか全速力で駆け抜け、山頂へ着いた芦名達は、


 ごぉん……ごぉん……


 と、重い金属の鳴る音が、本宮内より大きく響き渡っているのを聞き留めた。 


 目当ての巫女は鳴釜の間にいると確信し、転げるように下馬しては、一目散に巫女の姿を求めて疾走する。


 果たして、鳴釜の前へ巫女の姿在り。

 こちらに背中を向ける形で座している。


「おお、無事であったか!」


 芦名の大声に、巫女の脇に控えた侍女達がびくりと肩を震わせ振り向いた。


「芦名様……! よかった、いらっしゃって」

「何事かあったのか」

「それが……」


 言いあぐねた侍女は、視線を泳がせた挙句、一点へと差し向けた。


 そこには、床に直接あぐらをかいて座り込む巫女の姿があった。


 神事以外では、地に足をついてはならぬ巫女が、である。


 巫女は鳴釜に面を向けているため、芦名からはその表情は読めない。

 しかし、その後ろ姿からは並々ならぬ気が立ち昇っているのが感じ取れた。


 侍女はおろか、実の兄ですら声をかけるのをはばかられる威圧感を発するその様は、つい先程対峙した娘の、冷厳なる妖気にも通ずるものがあった。


「もしや、神憑かみがかり、か?」


 ようやくにして吐き出せた言葉が、それだった。


 芦名自身は天啓に通じる才はなく、熊野が神の御声を聞いた事はない。


 しかし、実妹である巫女はこれまでも稀に意識を失くし、神の宣託を賜る事があった。そして、そのことごとくは的中している。


 鹿島貞頼に与えた助言も演技ではなく、まことの事だったと判明した以上、今や真実、神が降りている状態なのだと信じる他はない。


 だとすれば何のために。


 決まっている。

 この熊野を襲う災厄を、かの光の龍をもって打ち払わんと遣わされたのではないか。


 そこまで思い至った芦名はすぐさまその場で平伏し、床に額を擦り付けんばかりにして叫んだ。


「畏れ多くも熊野の神よ! 我等が信心の全てを御身に捧げまする! 何卒、何卒この地をお守り下さりませ!」


 それを見た他の者も事態を察し、一斉に這いつくばって芦名に倣う。


 神事の心得ある者は、急ぎ祈祷の準備を始め、鳴釜の周囲を清めて、祭壇を据えた。


「かしこみかしこみ申し上げたてまつる……」


 鳴釜の間に集った者達は、神官の祝詞に合わせて祈り、鳴釜を仰いでは、お辞儀を繰り返す。


 信仰する神へ、少しでも力の足しになるよう、ただただ無心で祈る。


 その念が通じたのか、祭祀に加わらずに敢えて見張りに立っていた副官から、戦況に変化ありとの報告があった。


 それを受けた芦名は、鳴釜、及び巫女に一礼して場を辞すと、すぐさま見張り台へと駆け登る。


 そして目に飛び込んできたのは、凄まじい音と光の暴力であった。


 麓の上空は黒雲で埋め尽くされ、雨のような雷が数え切れぬ程に山裾に降り注いでいる。


 目を開けているのも苦労する眩しさに、どちらが優勢なのか、確認のしようもない。

 副官共々、耳を塞ぎ、細めた目で成り行きを見守りながら、神に祈るより他はなし。



 実際にはそれほど長い時間ではなかったろう。


 しかし成す術もない只人にとっては、いつ果てるともわからぬ雷鳴は恐怖でしかなく、芦名の時間の感覚は完全に狂わされていた。



 悠久かと思える時の果てに、ふと激しい雷撃が止み、訪れた静寂が月を覆っていた黒雲を払った。


 目が慣れてきた頃合いに様子を伺うと、芦名は眼下に絶望を見た。


 なだらかだった山の傾斜は、半ばから荒く削り取られ、絶壁と化している。


 もはや山や森があった形跡さえ感じられない程に破壊し尽くされた麓にて、全身焼け焦げた黄金の龍は力なく地に堕ち、首根っこを土くれの巨人に抑え込まれていた。


「……よもや、負けたのか? 我等の信心が足りぬというのか?」


 茫然自失となってよろけた芦名は、辛うじて見張り台の柵にしがみついた。


「芦名様、お気を確かに! まだそうと決した訳では……!」


 副官が必死に叱咤するも、芦名にはもはや虚しい願望にしか思えなかった。



 帝より祖を分かち、勅の元に治めて幾星霜。途絶えた事なき熊野の系譜。

 その命運、ついにここに尽きたり。



 己の代でこの地の終焉を招いた責任と衝撃から、芦名の意識は思わず逃避を試みた。


 自然、未だ鳴釜の前へ座す巫女へと視線が泳ぐ。


(最愛の妹にして、巫女たるお前にばかり苦労をかけた。不甲斐ない兄を許せ……)


 悔し涙に滲む巫女の姿が、一際眩い光を放ったのは幻想からだろうか。



 ──否。明らかに巫女の様子は変じていた。



 不意に立ち上がったと思うと、目前の鳴釜を無作法にも蹴り付けたのだ。


 ぐわぁん!


 と銅鑼どらを叩いたような音が鳴り響くと、鳴釜の内から光が湯水のように溢れ出し、巫女の右手へ収束してゆく。


 そして見る間に煮えたぎる熱湯となって剣の形を化すと、巫女はそれを握り締め、たどたどしい言葉を並べ立てた。


「……お、の、れ……お、ろ、ち……」


 その声音はもはや巫女のものにあらず。

 低く重い、大気を震わすような男の声が発された。


 一つ言葉を紡ぐ度、身体から湯気のような濃厚な気が立ち昇り、巫女の周囲を覆ってゆく。


「……やつと、さいても……まだ、たりぬ、か……」


 周囲の者はただ圧倒され、身動きならず見守るばかり。


「……こたび、こそ……いんどう、を……」


 そこまで言うと、熱湯の剣を一振りし、風のような勢いで本宮を飛び出して行くではないか。


「巫女様!」


 その場の誰もが反応できず、声をあげて見送るのみ。


 普段歩かぬ巫女が、あれほど俊敏な走りを見せるなど、誰が思い至ろうか。


 その動きはもはや人のものにあらず。

 真実、熊野が祭神を宿し、完全に身を委ねたのだ。


 見張り台の芦名は、これが夢ではないとようやく我に返り、巫女の行く先を目で追った。


 しかしその身は軽々と山中へ跳び、龍の身を道として駆け抜けるのを最後、闇に溶けて視界より消え去った。

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