8-2 温室


 カズマは研究所の広い廊下を足早に歩いていた。

 危険を承知でスミレの父だという教授に会いに行くのだ。


 今はまだ誰ともすれ違っていないが……。


「あの、ちょっと……」


 と、背後から呼び止められた。


 カズマは、自然に自然に、と内心で唱えながら振り返った。


 高校生くらいの大人しそうな男子がいた。


 シンプルな白いシャツに黒いズボン。

 カズマが今着用している服と同じだ。これはこの研究所で最初に着替えさせられた。


 男子はカズマの様子を見て納得したように頷いた。

 彼は食事の載ったお盆を両手で抱えていた。


「もしかして新しく研究所に来た人? 迷ったの?」


「ああ、うん。そうなんだ、ここは入っちゃいけないんだっけ?」


 カズマがとぼけてみせると、彼は苦笑い気味の顔をしてカズマの横に並んだ。


「ま、そうだね。良ければ僕、君の部屋まで案内するよ。

 ……ただ教授に食事を届けないといけないから、ちょっと待っててくれるかな」


 その教授というのが、スミレの父だと直感が告げた。


 ついていきたい、とカズマが申し出る前に彼は少し身長の高いカズマを見上げた。


「良ければ一緒に来る? どうせ一人で待ってても退屈でしょ?」


「いいのか?」


「本当は規則違反だけどね」


 廊下を歩きながらカズマは彼から研究所のことを訊き出そうと試みた。


 彼の名前はヨモギというらしい。


 ヨモギについていくとそれまでひたすら白い壁だった廊下が突然に硝子張りになっているところに出た。


 ヨモギがその大きな一枚窓の一つのドアノブを押した。


 開いた窓の向こうははちょっとした洋風の中庭のような景色だ。


 光が一杯に差し込む庭というほど素敵なものではないが、植物に触れたり、土の地面を踏んだのは何日ぶりか。


 少し心が安らいだ気がした。


 オシャレな温室が見えた。

 ヨモギと共に近付いていくと、扉に厳重な電子ロックが掛かっていた。


 ヨモギに頼まれ、食事のお盆はカズマが持った。


 ヨモギが丁寧な手つきで電子パネルに数字を打ち込んでいった。

 カズマに見られることを気にしないというよりも、わざと暗証番号を教えているような。


「……さ、開いたよ。カズマ君は教授に会うの初めてだよね?」


「ああ、ここにも初めて来たし……」


「悲鳴を上げたりしないでね」


 扉を開けた。

 ヨモギが静かに言い添えた言葉にカズマが訊き返そうとした時。


「……うぅ、うううぅ……」


 小さな植物が飾られた清潔そうな温室の奥に設置された木製の戸から人の呻きが聞こえた。

 カズマは最初、気のせいだと思った。


「教授、僕です。ヨモギです。お食事を持ってきましたよ」


 ヨモギが慣れた様子で戸を開け放った。


 そこには随分と老けた印象の男性がいた。

 服に皴が寄っていることもなく体も清潔だった。

 だが、どこか枯れ果てた姿。


 カズマはぞっとした。


 周囲の淡い色合いの可憐と言える花々が、この“教授”の生気を根こそぎ吸い取っているように見えた。


 カズマは驚きの声を上げかけて、すんでのところで飲み込んだ。


「……うう、本、本を寄こせ……。知識を、私に知識をくれぇっ!」


 教授のひしゃげた声と形相が迫ってきた。


 カズマは思わず一歩後退った。


「すみません、教授。規則なので本は駄目ですけど、お食事はここに置いときますね」


 ヨモギは顔色を変えることもなく、カズマに食事を机に置くように指示し、ベッドの上で散らかっているシーツや枕を整えた。


 カズマは出入り口の戸に立って、狭い部屋の天井近くに監視カメラが設置されていることを盗み見た。


 訳も分からず嫌な動悸がした。


 この教授は監視され、温室から続くこの部屋にどれ程の時間、自由を拘束されてきたのだろう。


 ふとヨモギが食事のお盆の前に立った。

 不自然さはないが気になった。


 食器の下に敷かれているランチマットを少しめくってみせた。


 カズマは気が付いた。


 ヨモギは監視カメラからは見えないが、教授の目に入るように動作した。


 何か意味があるのか。それをここで訊くことはできない。


「じゃあ、次は夕食を持ってきますから。きちんとご飯食べてくださいね、モモウラ教授」


 呼び掛けに反応した教授が真っすぐにカズマとヨモギを見た。


「モモウラ教授」とヨモギは目の前の教授を呼んだ。


 カズマはようやくこの男性がカズマの知る教授と瓜二つの顔をしていると分かった。


 ヨモギは混乱して立ち尽くすカズマの腕を取り、温室から連れ出した。





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