二十一日目 雨


 朝、窓を横殴りの雨が叩く音で目が覚める。言うまでもなく、外はかなり強めの雨だ。

 雨、と聞いていい思い出はあまりない。僕の両親がいなくなった日も、瑞希の会社の倒産の知らせを受けた日も、瑞希の余命が宣告された日も雨だった。

 だから今日も何か起こってしまうのじゃないかと恐怖する。


 そしてそれはまた、現実になる。


 隣で眠っているはずの瑞希が、ピクリとも動かない。呼吸のリズムも、ふくらみ、縮むはずの灰も、まったく微動だにしていない。

 

「瑞希っ・・・!!?」


 僕は必死に瑞希を揺り起こす。ただ眠っているだけと判断するには状況があまりにもイレギュラーすぎる。間違いなく非常事態と言ってもいいかもしれない。

 一度、もう一度、何度も瑞希を揺する。身体から体温が奪われてないことだけが唯一の救いだった。


「嫌だよ・・・こんなところで死なないでよ・・・!! まだ、約束あるんだから・・・!!」


 その呼びかけに答えてかそうでないかは知らないものの、少しして瑞希は重たそうに瞼を開けた。その瞬間、僕の中で強張っていた全ての筋肉が緩む。


「よかった・・・」


 じんわり目尻に涙を溜めて僕はそう呟く。しかし何が起こっていたか分からない瑞希はきょとんとして僕の顔を見つめていた。


「おはよ、アキ君。・・・なんで泣いてるの?」


「いや、これは・・・」


「私、何かあった?」


 瑞希も馬鹿ではない。僕の動揺を見るなり、すぐに僕の涙が自分のせいだと気づいたようだった。それから申し訳なさそうに眉を顰めて、落ち着いた声音で僕に尋ねる。


「・・・私に何があったか、教えてほしいの」


「瑞希、息をしてなかったんだ・・・。ピクリとも動かなかった。体温はまだ残っていたけど、呼吸してなくて・・・。だから、死んでしまうんじゃないかって、怖くて・・・」


「そっか。それで・・・」


「え?」


 瑞希は自分の中で納得がいったように一度しっかりと頷いた。瑞希の方でも、何かあったのかもしれない。今度は僕がそれを知りたくなった。


「瑞希も、何かあったの?」


「・・・またね、夢を見たの。とびっきりの悪夢」


 悪夢・・・確か、この間はみんなから忘れられていく夢だったっけ。あれを超えるほどの悪夢を、瑞希は見たっていうのだろうか。

 僕は息を飲んで、瑞希の語る悪夢を静聴する。


「私が壊れてく夢だった。誰もいない場所で一人ポツンと私がいて、体がどんどん破裂していったの。足から、左腕。目も見えなくなってその場で動けなくなって、最後に心臓が。いっぱい血も出たし、声にならないほど痛かった。だから、私の心臓も止まってたのかもしれない」


 生々しい悪夢の実態を聞かされて、僕はゾワリと鳥肌を立たせる。それは、死に至る病を抱えている人間にはあまりに残酷なものだった。それを瑞希は肌身を持って体感している。恐ろしいにもほどがある。

 だから僕は、気が付けば瑞希をこれでもかと言うほどの力で抱きしめていた。そうでもしないと、すぐそこにいる瑞希が遠く離れていってしまう気がしたから。


「アキ君、苦しいよ・・・」


「・・・ごめん」


 そして少し力を緩めて、僕はなおも瑞希を抱きしめる。少なくとも今は目の前の瑞希を放したくはなかった。

 瑞希は仕方がないなと言わんばかりの困った表情で、僕に抱きしめられているままでいた。


「大丈夫だよ。私は生きてるから。・・・ね」


 瑞希はか細い手で僕の頭を触れるか触れないかギリギリの柔らかなタッチで撫でる。甘えていい状況じゃないことなんて分かってるのに、それから離れられない僕はやっぱり、弱い。


 いつまでもこうしてはいられないと、瑞希に埋めていた顔を放したのはそれから三分ほど経った後だった。瑞希は毒気を抜かれたような顔で僕を見つめたままでいる。

 そしてそれから家に響く音に気が付いたのか、ふと声を上げた。


「雨、なんだね」


「うん、雨が降ってる」


「だから、アキ君は焦ってたんだ」


「・・・うん」


 瑞希は、僕が雨を嫌う理由を知っていた。そりゃそうだ。同じ痛みを共有した二人なのだから。


「わたしはここにいる、何も起こらないし、大丈夫だから」


「・・・うん、ありがとう」


 弱気になってしまう、悪い癖はきっと雨のせいだ。

 そんな雨は・・・今日は止みそうにない。



---



 窓ガラスを、触れた雨の水滴が伝っては落ちていく。もう昼だというのに、雨は一向に止む気配がない。

 そのたびに、僕は何度も瑞希の方を見る。瑞希は今日も昨日と同じように何かを編んでいる。


「昨日から気になってたんだけど・・・、瑞希、何作ってるの?」


「これ? 秘密だよ。まだ教えられない」


「どうしても?」


「どうしても」


「分かった。じゃあ聞かないでおく。楽しみに待ってるね」


「うん、そうして」


 微笑みながら語る瑞希だったけど、その瞳の奥には確かな拒絶と強い意志があった。それでいて無理強いしてまで教えてもらうのは男として情けない話だ。

 だからこの話は、今は置いておく。きっといつか瑞希の口から語ってくれるだろう。完成した、その時に。


 そして僕は手元のスマートフォンに目を落とす。特別やることがあるわけじゃないけど、何もしないよりはマシだと指先を動かした。

 その時、どこかよくわからない広告がふと目に入った。・・・書いてある内容に、僕は歯をギチリと食いしばる。


 葬儀だ。本当に偶然の産物。でも、僕の目の前の画面には葬儀についての広告がある。僕たちのこれからを、運命を、笑おうとしてるのだろうか。

 僕が卑屈になりすぎてるのは分かってる。・・・それでも、目の前に映し出された二文字を見るのは、今の僕には辛すぎて。


 苛立ってスマホを投げつけようとしたとき、瑞希の優しい声が僕の耳に刺さった。


「アキ君、ダメだよ」


「っ・・・!」


 すんでのところで、僕は振り上げた腕を下ろす。しばらくしてどたどた音がしたかと思うと、瑞希は自分で車いすを動かしてソファに座る僕の後ろに来ていた。

 それから、そっと後ろから腕を回して優しく僕を抱きしめる。


「まだ、泣き足りない?」


「そうじゃなくて、僕は・・・!」


 瑞希の死を、まだ認めることが出来ない。ただ、それだけなんだ。

 今もこうしてここで生きてくれているのに、どうして死んだ後のことなんて考えなきゃいけない。どうしてその二文字を見せられなきゃならない。その理不尽さが、たまらなく嫌で、嫌で、仕方がない。


「アキ君。・・・人は、いつか絶対死ぬんだよ。それが私はたまたま早かっただけ」


「瑞希はそれでいいの!?」


「・・・」


「あっ・・・」


 ついには大声を上げて怒鳴り散らしてしまう。瑞希はそれを受けて困ったように黙り込んでしまった。

 ダメだ。本当にダメだ。自分一人ですら全く制御できないなんて。


 でも、それでも、瑞希は優しい瑞希だった。僕を包み込んだままで、しとやかな声で答える。


「一昨日あれだけ泣いてたらさ、なんか逆にすっきりしちゃった私がいるの。・・・なんでだろうね、長生きできてたらやりたいこといっぱいあったけど、出来ないって分かっちゃったら、諦めるのもなんか早くて」


「・・・」


「だから今は、今やりたいことだけを考えてる。一緒に入れるならもっと一緒にアキ君といたいけど、それは無理だってこと、私が一番分かってるの」


 瑞希の腕はどんどんか細くなっている。それどころか、今でさえ呼吸のリズムが若干おかしい。本当は自分の限界なんてとっくに超えてるのだろう。

 瑞希は分かってる。・・・ここから先は、いつ死ぬか分からないと。


 その痛みが分かる人間と、分からない人間。共有できないこの距離がたまらなくもどかしい。


「・・・ねえ、アキ君」


「なに?」


「生きてね」


「・・・瑞希がいない世界で?」


 無責任とも取れる瑞希の言葉に、僕はまた性懲りもなく苛立ってしまう。それでも、瑞希はまっすぐ自分の意見を貫き通した。


「私がいない世界でだよ。私が生きた意味はアキ君にあるの。・・・そんな簡単に、私がいた意味を失くしてほしくない」


「・・・しんどいよ」


「分かってるよ」


 それから二人黙り込む。喧嘩じゃないけど喧嘩のような空気。今の瑞希にクズになった僕が言える言葉はもはや何もなかった。


 それもこれも、長く降り続く雨のせいだ。




 今日の雨は、止みそうにない。





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