憧れの少女


ナリバ基地まであと半日。

イチカはトレーニングルームにいた。


この部屋にはフィットネスマシーンから格闘リングまで最新の設備が整っている。また、常時重力システムが作動しているため、宇宙空間でも地上と同じ負荷でトレーニングすることが可能だ。


イチカは格闘リングの端末を操作し、ヘルメットと簡易グローブをつけてリングに上がった。


イチカが所定の位置に立つと、対面のコーナーに生気もなく寄りかかっていた男がゆらりと立ち上がり格闘の構えを見せ、足をリズミカルに動かし始める。


対するイチカもゆるく握った拳を顎の高さまで上げ、迎えうつ構えを見せた。


それを合図にするかのように、男はイチカの顔めがけて大振り拳を突き出す。

イチカは危なげなくそれを避けると、体を屈めて男の懐に入り込み、反撃とばかりに男の腹に一発拳をぶちこんだ。

男が無表情でよろめきながら体勢を立て直そうとするが、イチカはそれを許さない。

完全に体勢を整える前に、男の側頭部に強烈な回し蹴りを食らわす。


男は吹っ飛びリングロープにグシャリと衝突、床に力なくずり落ちた。首がイヤな角度で曲がっている。


『対人体術シミュレーション、レベル3。クリア。次のレベルに挑戦しますか?』

「レベル6を開始して」

『了解。レベル6を開始します。所定の位置に立ってください』


リング端末の機械的な声に応えると、イチカは初期位置へ戻った。

すると、先程の男が再び起き上がり対面位置まで移動、イチカに向かって格闘の構えを見せる。


イチカは小さく息を吐くと、再び軽く握った拳を構えた。






………どのくらいシミュレーションをし続けただろうか。


構えを続ける腕と脚には乳酸が溜まっているのを感じるし、肩で息をするほど呼吸そのものが苦しい。


集中力が切れかける中、相手から素早く繰り出される蹴りに慌てて意識を集中する。

なんとか一撃を避けるが、レベルを上げた男はその隙を見逃さずにイチカの横っ面に強烈なパンチを食らわせた。


すんでのところでガードするも、イチカの身体が飛び、リング端に投げ出される。


「ケホッ……ぅぐ…!」


直撃は免れたとしても相当な衝撃だ。イチカは倒れ込んだまま呻く。


そんなイチカに男がとどめを刺すかのようにゆっくりと近づいてきたが、ふと動きが止まり男の身体から力が抜けた。


「レベルMaxとか…さすがにやり過ぎだ」


イチカがリング端末に視線を移すと、そこにはエヴァンがいた。彼がシミュレーションを止めてくれたのだろう。


「いつからやってるんだ?」

「…おぼ、え…てなぃ…」

「まったく、その様子じゃブッ通しで長いことやってたんだろ?ほら、飲め」


エヴァンはイチカの傍まで寄ると、ペットボトルを差し出した。


イチカは口で右手のグローブを外し、重い腕をなんとか持ち上げると、エヴァンからペットボトルを受け取る。


まだ頭へのダメージが残っており起き上がることができないので、そのまま力なく仰向けになりながら呼吸を整え始める。時間にして2分、ようやく呼吸が落ち着いてきた。


「オーバーワークはほどほどにな。乗船してからずっとだろ」

「...なにもしてないと、思い出しちゃうから...」

「なにを?」

「最初の出撃」


イチカは上体を起こし、エヴァンからもらった水に口をつける。常温なのがありがたい。一気に半分ほど飲み干す。


「...思考ができないくらい動いてたい」


そう呟くイチカはどこか遠くを見つめていた。

イチカはアカデミーの思い出に思考を飛ばしていたのだ。


いま思えば、アカデミー時代は良かったなぁ......。訓練は厳しいものだったが束の間の休息があった。

休み時間は一人でいることも多かったが、授業の前後、同期の仲間と他愛もない話をするだけで、心が安らいだものだ。


よくいたのはエヴァンと...−−−


「リリアは元気?」


リリア・ウォン。

エヴァンの許婚であり、アカデミーパイロットコースの主席。

次席がエヴァン、三席がイチカのため、成績の近い3人は班が一緒になることも多く、比較的会話をする仲だった。


リリアはイチカにとってとても眩しく、愛おしさも感じるような存在だった。

見た目は小柄で可愛らしい17歳だが、軍人家系の末娘ということもあり品の良さと気の強さを共存させる、一種のカリスマ性を持つ娘だ。加えてアカデミーの成績もトップという、高嶺の花と呼ばれるような、一般人が手に入らないものをすべて持っている存在。

通常ならイチカも人並みに妬みそうなものだが、ここまでかけ離れているともはやその気も起きない。むしろ、リリアには妹にも似た愛情が芽生えそうなのを感じていたし、エヴァンと2人、仲睦まじく過ごしているのを見守ることに心地良さを感じていたほどだ。


リリアは現在最新の研究施設に単独配属されていると聞いたが...。


「あぁ、問題なくやってるらしい。昨日も通信で話したけど、変わらずだよ」


ランニングマシーンの設定をしながらエヴァンは思い出し笑いをしていた。


エヴァンの様子から察するに、リリアが配属先でも上官に対して臆することなく色々進言している姿が目に浮かぶ。

彼女の後ろ盾を考えれば、周りも強くは反論できないだろう。扱いづらい新人であることには違いない。上司になる人間は気の毒だ。


「そういえば、結婚はいつごろ?」

「2年後を予定してる」

「そか。結婚式やるなら呼んでね」

「あぁ、もちろん。リリアがイチカを呼ばないわけないだろ?」


エヴァン曰く、リリアは特別イチカに心を許しているらしかった。リリアもあからさまに甘えるタイプではないし、イチカも四六時中行動を共にしていたわけではないから自覚はあまりなかったが、エヴァンが妬く程度には特別慕ってくれているようだ。


イチカは残りの水を飲み干すと、エヴァンの隣のランニングマシーンに移動する。


まだやるのかと言いたげなエヴァン。

イチカがクールダウンするだけと言うと、渋々といった様子でそれ以上は何も口にすることはなかった。




この時、イチカは信じて疑わなかった。


この優しい少年エヴァンとリリア、2人が幸せになる未来を。




---ちょうど時を同じくして、消灯されたエヴァンの部屋、1件の通知がタブレットに届き、画面が光々と光っていた。


それはエヴァンとイチカの心に暗い影を落とすことになる。

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