第58話 名前
頬に当たる心地の良い風で、私は目を覚ました。
同時におでこにヒンヤリとした、冷たい感触が伝わる。ゆっくりとそれに触れると、氷水を入れたビニール袋が、私のおでこに当てられているのだと分かった。
今時のシートでは無く、古典的で珍しい。
「……起きたん?東條さん」
そんな事を考えていると、真横から声が聞こえてくる。
声の方向に顔を向けると、大野君が座っていた。
ゆっくりと状態を起こすと、私が横になっていたのは縁側で、頭の後ろには枕もあった事が確認できた。
外の方を見ていると、もう空は紫色から暗闇に変わりそうな所で、目線の少し先には今日、一日一緒に働いてくれた大人たちが、ビールやお酒を片手に談笑しているのが見える。
「……大丈夫?やっぱまだボーッとするんか?」
私がその光景を呆けて見ていると、心配そうに大野君がそう尋ねて来た。
あれ?なんで私、ここで横になっていたんだっけ?
「急に倒れるけぇ、びっくりしたで。体調悪いんなら早よ言いんさいな」
「う、うん」
状況が整理できない。確か牡蠣が全部売れて、佳代さんに労いの言葉をかけて貰って、大野君にお礼をして、それで………
「……あ………」
色々と思い出す。それであの後、思考が真っ白になった私は、倒れたのだ。
今日一日の疲れが出たのもあるが、1番の原因はあの大野君の一言が原因だろう。
「体調は大丈夫なんか?どこか具合悪いところは?」
私は黙って首を振る。少し気怠さはあるが、それは今日一日の仕事の疲れだろう。しかしあの大野君の一言を思い出してしまって、再び顔に熱を帯びて行くのが分かった。
「良かった。だいぶ寝とったけど、門限とか大丈夫なんか?」
大野君にそう言われて、慌てて時計を確認する。だが時刻はまだ7時半。門限までにはまだ時間があった。
「う、うん、まだ大丈夫」
私は先程のことを思い出して、ドギマギしているのだが、大野君はいつも通りの口調だ。
それが何だかそれがモヤモヤして、私は時計から大野君の方へ顔を移す。
だが、そんなモヤモヤした心は、一瞬で吹き飛んだ。
「ん?何?変な顔しよってからに」
「……大野君も、耳真っ赤だよ?」
顔をよく見ると分かった。大野君も平常心では無いのだ。口調も表情も、いつも通りなのだが、耳だけは茹で蛸の様に真っ赤だ。
「……そう言うのは、気付かんでも良い」
「残念、私は気付いちゃうんだ」
揶揄う様に私はそう言う。そうでもしないと、また頭が真っ白になる気がしたからだ。
大丈夫。私は余裕を持って接していれてる。
主導権を大野君に渡してしまったら、どんな行動をするか、自分でも分かったものでは無い。
「あ、京香ちゃん!起きたんね!!良かったー!具合悪いところとか無い!?」
すると、お酒を飲んでいた大人グループから、佳代さんが近づいて来た。
彼女もだいぶお酒が入っている様で、顔が真っ赤だ。
「こっち来んな。酔っ払いが移る」
いつも通り大野君が鬱陶しそうにそう言うが、佳代さんは気にしていない様子だ。
「ええー?何ねー、スカしてからに?京香ちゃんが倒れた時は一番慌てとった癖に」
「うっさい!!また余計な事言いよってからに!!!」
そして、佳代さんが余計なことを言って、大野君に怒られる。今日一日で何回も見た光景だ。
「聞いてえなー!京香ちゃん!!この男ねー?京香ちゃん倒れて泣きそうになっとったんでー!?ゔぇあっはははは!!!」
「ホンマええ加減にせえよ!!」
ゲラゲラと楽しそうに笑う佳代さんに、真っ赤になりながら、物理的に佳代さんの口を封じようとする大野君。
心配してくれたのは嬉しいのだが、まるでコントの様な親子のやりとりに、笑いが出てしまう。
「あははっ、心配してくれたんだねー?大野君?」
なので、私も佳代さんに乗っかって揶揄ってしまう。
「東條さんも!!悪ノリせんでええから!!」
大野君は心底恥ずかしそうな顔をしているが、それもまた魅力的に映ってしまう。
惚れた相手というのは、どんな表情を見せても格好良く映るものなのだろうか?
「それ!!」
すると、突然佳代さんが私と大野君に向かって人差し指を突き出し、そう言った。
「はぁ?何が?」
大野君は一体それが何を表しているのか分からず、首を傾げる。私も同様に首を傾げた。
「呼び方!!何でアンタらまだ苗字で呼び合っとんね?」
佳代さんのその言葉に、私も大野君もドギマギしてしまう。
「な、何で言われても……初めて
「う、うん。そうだね……」
口では大野君に同意しているが正直、私は大野君では物足りない。
"蓮君"。良い響きではないか。
「御託はええんじゃあ!!そんな距離感でお互い苗字呼びなんが違和感あるっちゅーとるんよ!!ほら蓮!!京香ちゃんって言うてみい!!!」
「はぁ!?そんないきなり……」
大野君は佳代さんがいる手前、躊躇している。……これはチャンスだ。こうなれば先手必勝。
「蓮君?」
「……え?」
私は戸惑うことなくその言葉を発する。
案の定、大野君。いや、蓮君は呆けた顔をしていた。対照的に佳代さんはキラキラと目を光らせる。
「キャーーー!!!言った!!京香ちゃん言ったー!!!男らしい!!!」
女に向かってそれは褒め言葉なのだろうか?しかし、かなりの満足感と多幸感があるのは間違いない。胸に突っ掛かっていたモノが取れてスッキリとした気分だ。
「蓮君はこの呼び方嫌?」
私はかなり意地悪な言い方をしてしまう。
だがしてやったりだ。ドキドキしているのと同時に、心のどこかでほくそ笑んでいる私がいる。
「いや、嫌じゃないけど……」
ほら、蓮君の顔は真っ赤だ。こうなれば蓮君も私の事を"京香ちゃん"と呼ばざるを得ない。
"京香ちゃん"。何と言う素晴らしい響きだろうか。
「あの、すみません、牡蠣の販売って、もう終わったんですか?」
すると、私の背後から男性の声がした。この声には聞き覚えがありすぎる。
一瞬、心臓が止まった様な錯覚を覚える。
「うーん、看板がもう無かったから、全部売り切れたんじゃない?」
もう1人、続けて女性の声がした。この声にも聞き覚えがありすぎる。
私は一瞬止まりそうになった心臓を再び動かして、声の主の方へとゆっくり振り返った。
「お、お父さん……?、お母さん?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます