第138話
フランが起こす声で、目を覚ます。隣に座っていたイェナも私の頭に凭れかかって眠っている。どうやら自家用ジェットが到着したらしい。
彼の体を揺さぶって起こす。
「イェナ様ー?」
声をかけると、カッと目を見開いた。そのままバッと体を起こして私から距離を取った。
「おはようございます、着きましたよ──」
「──誰、お前」
鋭い視線。冷たい声。彼を取り巻く殺気。
そのどれもが私の“婚約者”のものではない。これは──“暗殺者”であるイェナのものだ。
喉の奥に声が詰まってひやりと全身が凍りついた。
「──え」
笑い飛ばせばいいだろうか。冗談はやめてと嗜める?
でも私の恋人はこんな冗談を言うような人じゃない。
硬直する私に、アロを始めとする他の人たちも驚愕の表情を浮かべていた。
「……どうしたの、イェナ?それはさすがに冗談キツいんじゃないかい?」
アロがフォローしようとするが、イェナは苛立っているようだった。舌打ちをしてアロを見上げる。
「何、アロの女?殺す前にどこかへやってくれる」
──心臓が軋む。あんなに嫉妬していたくせに──“アロの女”だって?
震える手を伸ばしてイェナに触れようとするけれど、無情にも叩き落とされてしまう。
「触るな」
ジンジンと手が痛い。でも心の方がずっと痛かった。
「──殺すよ」
これは本気の威嚇だ。私には分かる。
だって誰より近くであなたを見ていたから。
『──オレについての記憶があるなら、どうだっていいよ』
そう言ったじゃないか。それなのにどうしてあなたは──私の記憶だけ、落としてしまったの?
シートから立ち上がって出口へと向かうイェナを慌てて追いかけようとする。
「イェナ様っ!待って──」
「うるさい」
またあの敵を見るような目が突き刺さり、泣いてしまいそうだ。それでも負けじと足を踏み出すが、後ろから肩を掴まれて動きを止められた。
「ナツ、今は引きましょう。これじゃあ本当に殺されちゃうわ」
「アインさん……」
真剣な顔でそう言われて私は唇を噛みしめることしかできなかった。アロもいつものふざけた様子はない。
「一旦、マヴロス家に帰るのはよそう。フラン、泊まるところ手配できるかい?」
「ええ、それがよさそうですね……」
フランも心配そうに私の顔を覗き込んでいた。
ふと緩んだアインの手を振り払い、自家用ジェットの出口まで駆けていく。既に降りているイェナの背中に向かって私は叫んだ。
「──イェナ様!!」
いつものように体ごとこちらを振り返ってはくれない。首だけでこちらを見るその目が怖かったけれど、私は言葉を続けた。
「あなたが私を忘れてしまっても、私はあなたのメイドで婚約者で、専属医で抱き枕で……恋人ですから!!」
一度ゆっくりと瞬いて、彼は鼻で笑った。
「──くだらないね」
──あの優しく抱きしめてくれるあなたは、一体どこへ行ってしまったのだろう。
不安を全身に纏った私を置いて、イェナは去っていく。もう、振り返ってはくれなかった。
──誰かが言った。「世界は残酷だ」と。
けれど別の誰かは笑った。「それでも、世界は美しい」と。
体を穿つような絶望に染められた私の心とは反対に、真っ青な空は確かにこの世界を美しく彩っていた。
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