第131話


 割れた小さな氷の粒が無数にリング外へも飛んでくる。鋭く尖った部分がナツの頬を掠めて切り傷を作った。

「いた……」

 大した痛みではないはずだった。紙の端で指を切ってしまった時のような、少しだけピリッとした痛み。血は流れはしたものの、すぐに止まった。

 そう、耐え切れないほどの痛みではなかったはず──。だが、ナツの目からは涙が零れ落ちた。


「いたい……」

 頬に滲んだ血を拭いながらナツがポツリと呟くと、アロがその顔を覗き込む。

「……痛いのは、傷だけかい?」

 優しく問いかける声はサイコパスの影もない。ただ単純に、彼女の身を案じていた。


 アロを見上げるナツの瞳は揺れ、少しだけ間を置くと上擦った声で答えた。

「いたい、です……」

 次から次へと涙が溢れる。拭っても拭っても、止まりはしなかった。フレヴァーは真っ青な顔でオロオロしている。アロは心配そうに彼女を見て、ゴシゴシと目元を擦る手を取り制す。

「そうだね、心も──痛いよね」

 その言葉に、堪えていた思いが堰を切ったように流れ出した。


「うわーん!」

 隣にいたアロの肩にギュッとしがみつく。何かに頼っていないと震える足では立っているのもやっとだ。

「……ちょっと、なっちゃん?ボクがイェナに怒られちゃうじゃないか」

 そう嗜めるが、それは言葉だけで振り払うような素振りは全く見られない。試合中の戦友を思うと、抱きしめ返すのは気が引けたようでナツの腰に手を置いて支えるだけに踏み止まった。


「戦いを……やめて、ほしいかい?」

 フレヴァーは二人を見て思った。アロは基本的に女性に優しい──ように見える。胸の内でどう思っているのかは分からないが、丁寧で物腰柔らかい彼はサイコパスな言動さえ控えればその美しい容姿も加えて女性から人気があった。だが、ナツに対してはそれとは何かが違う気がすると。


「やだ……っ。負けたっていい。プライドが傷付いたって、やめてほしい……!」

 嗚咽を抑えながら泣き続けるナツをフレヴァーは心配そうに見ていた。

「……でも……そんなこと、言えない……っ」

 少女の悲痛な思いも、戦いに夢中になっているイェナは気付かない。


 本当は、頃合いを見てイェナを止めるつもりだった。まだチームが負けるわけではないのだから、この試合を放棄してくれと泣き叫んででも懇願するつもりだったのだ。だがナツはそんな自分の甘い考えを後悔した。

 血を流し、肉を削り、命を捧げ──ただ、自らの誇りをかけて戦う。そんな真剣勝負を実際に目の前にすると、口を挟んで止めることなど少女にはできなかった。


「……イェナが離さないはずだよ。いい女だね、なっちゃん」

 自分の腕の中に温かい存在がいる、という初めての経験でアロは少しばかり動揺する。


 女に触れるのは初めてではない。むしろ堅物なイェナなんかよりよっぽど経験豊富なはずだ。気が向けば適当に気に入った女を見つけて一夜を過ごす。生きている人間なのだから、当然今までの女にも体温はあった。それは理解できるのに──何故この少女の温もりは、こんなにもダイレクトに伝わるのか。他人の体温が心地良いと感じたのは初めてだった。


 女は面倒な生き物だ。それはこの少女も同じだと分かる。それなのに、どうして苛立たないのか。すぐに泣く女も嫌いだった。なのにどうして、彼女は壊そうと思わないのか。


 腕の中で泣きじゃくる少女を、どうにかしたいと考えたことはない。ただ──腕の中にいるうちは、壊れないようにそっと触れようと思った。"大事"にしようと思ったのだ。


 それは彼女がイェナの特別な人だからなのか。それとも──。

 バチバチバチ……ッ

(うん、ちょっと痛いなあ)

 まさに今戦っている男のオーラがふんだんに込められた、少女を守るための結界がアロの触れている部分を電流で焦がす。アロは苦笑して──ナツを“大事”そうに抱きしめた。

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