43 上書き

 アクロは孤独な存在であった。

 生まれを祝福されず、死だけを望まれた。

 愛情を注がれず、憎悪だけを身に受けた。

 隠されて育った彼女に与えられたのは、狭い部屋とひとりぼっちの時間。

 魔王の頃と大差はなかった。

 恨む気持ちもない。そのような感情すら芽生えていなかった。


 彼女を憐れむ誰かの手によって数冊の本が与えられた。

 字は、アクロが三歳のころまで身辺の世話をしていたメイドが教えてくれた。緑の目がきれいな女だったことを覚えている。

 自分を倒した者たちの話を読むというのは奇妙な感覚であったが、彼女は何度も繰り返し読んだ。

 何度も何度も、自分が死ぬ話を読み続けた。

 いつしか、もう一度この一行が殺してくれたらいいのにな、と思うようになっていた。


「もっと楽しいことを考えようよ」


 まどろみの中でだけ会える青年は苦笑交じりに言う。

 いつからそこにいたのかは分からない。自然と受け入れていた。

 覚醒したときには姿かたちも、話した内容もおぼろげになっている親切な隣人。


「たのしいこと?」

「美味しいものを食べたり、いろんなところに行ったり、たくさんの人と話したり。そういうこと」

「しらないよ、そんなこと」


 無表情でアクロは首を振る。


「しらないことをかんがえるなんてできない」

「それもそうか」


 青年はドアの前に立った。


「外でさ、声がするだろう? この家の人たちより偉い人が来ているんだ」

「そうなの?」

「そうさ。ねえ、会いに行かない?」

「どうやって?」


 いたずらっぽく青年は提案する。


「ドアを破壊するんだ。それも飛び切り派手にね」

「できるかなあ」

「出来るさ。ほら、ドアから目を離さないで。壊したいものを指で指し示してごらん。そうだ」


 黒い蝶が、舞う。

 幼い少女を外から隔てていた部屋はいとも簡単に破壊された。

 青年は予想外の威力に腹を抱えて笑っていた。


「上出来! いいね、すばらしいよ。僕ももう少し魔法の才能があったらこんなことしてみたいな。あとは――」

「ねえ。おにいちゃんは、だれなの?」


 はじめてそこで、青年は言葉に詰まったように見えた。

 アクロの頭を撫でながら彼は囁く。


「君を殺した人間だよ」


 ——その後。来訪していたルミリンナ夫妻が、閉じ込められていた幼い少女を憐れんで自らの養子に迎えた。

 新しい生活と勉学にいそしむうちにアクロはいつしかまどろみの隣人のことを忘れていった。



 医務室で、アクロはトルリシャに付き添っていた。

 看護師は先ほどカサブランカ孤児院に連絡すると言って出ていったため、ふたりきりだ。

 こんこんと眠りにつくケンタウロスの少女の横顔を見つめる。ゆっくりと立ち上がり、覆いかぶさるようにして顔を近づけた。


「洗脳、ですか……」


 魔術でないなら『破壊』することはできない。

 だが――上書きならばどうなる?


「ごめんね」


 一言謝り、そっとトルリシャの額に手のひらを乗せる。

 ざらざらとした音がアクロの喉から引きずり出された。


「今■日の■■事はぜん■ぶ忘れ■■さい」

「っ!」


 びくりとトルリシャの身体が弓なりに仰け反った。

 洗脳と命令のはざまで意思が揺れているのか。

 アクロは手に力を込めながらもう一度ゆっくりと繰り返す。


「忘■■れな■さい」

「あ……が……」


 トルリシャの口の端に泡が浮かぶ。

 険しい表情でじっとその様子を見守った。ここまで洗脳が強ければ、オズワルドが言った通り目覚めたときにまた自害しようとするだろう。

 仲のいい少女が自分の行いによって苦しむ様を見るのは愉快な気分ではない。

 だが始めた以上、中断は出来ない。


「ぜんぶ■、忘れ■ろ」

「ぎ……」


 びくびくと身体を震わせたあとトルリシャは寝台に沈んだ。

 息を大きく吸い込み、一度止まった後に緩やかな呼吸がはじまる。

 白目をむいていた目が瞬き、ぐるりとアクロの方を向いた。


「……アクロちん?」

「こんばんは、リシャさん」


 きんいろの瞳を細め、優しくアクロは笑う。


「どうして、ここに?」

「もう眠る時間ですよ。おやすみなさい」


 額に置いていた手をそのまま瞼の上に移動させる。

 オズワルドの眠りの魔術がまだ残っていたか、それとも負荷のせいか再び眠りにつく。

 成功かは分からない。だが、アクロがこの場を離れても命を絶つような真似はしなくなったはずだ。

 彼女は窓へ歩いていく。

 一度振り向いてトルリシャを見た後に、鍵を開けた。


 ——数分後。

 孤児院に連絡がつかず、ひとまず医務室へ戻って来た看護師はアクロの姿が消えていることに気が付く。

 開け放たれた窓と、風に揺れるカーテンだけがそこにあった。

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