771

1614


「見えたっ!」


 静かに森の中を飛んでいると、前方の大岩の上に立つオオカミの姿を捉えることが出来た。


 まだ100メートル以上距離はあるが、前を向いたままで俺に気付いた様子は無いし、完全に背後はノーマークだ。


 これまでの動き方から、大分慎重な性格をしていると思ったんだが、まさかこの距離に来ても気付かれないとは思わなかったな。


「ふむむ……隙だらけに見えるけど、コイツがこんな簡単に隙を見せるかな……? いくらジグハルトの威嚇を受けているとはいえ、ここまで近づいて無反応ってのは……おかしいよな?」


 街中で普通の住民が相手だったら、単に俺に気付いていないだけって考えるんだが、コイツは人間なんかよりもずっと感覚が鋭い魔獣だ。


 もしかしたら何かに気付いていて、敢えて俺を釣り出すために気付いていないふりをしている……なんてことも有り得る。


 ジグハルトが、正にコイツらを相手に似たようなことをしているもんな。


 ものを考える頭はあるだろうし、警戒のし過ぎ……ってことはないはずだ。


 ってことで、突っ込む前に一旦木の陰に体を隠して、周囲の様子を窺うことにした。


 ◇


 辺りをキョロキョロとしながら周囲の木や茂みの様子に加えて、ボスたちを遠巻きにしている魔物たちの様子も観察した。


「……なるほど?」


 数分程度ではあったが、その間もこちらに気付く様子は見せなかったし、突っ込んでしまってもよかったような気はしたが……お陰で一つ分かったことがある。


「風向きはこっちからなのに……気付かれていないね。【風の衣】が上手く働いてくれたかな?」


 俺自身は風を感じないが、周囲の木の枝などから風向きがわかる。


 丁度こちら側から風が吹いているんだよな。


 魔獣とは言えオオカミなんだし、多分嗅覚に頼っている部分は大きいはずだ。


 だからこそ、背後から風が吹いている状況で特に異変を感じないのであれば、背後に危険は無いって判断してもおかしくない。


 他の魔物たちもそうかも知れないな。


「ってことは、魔物たちの視界に入らなければ、安全に近づけるってわけか。それなら仕掛ける位置も選べるね」


 俺とボスとの直線上には魔物はいないが、左右の離れた場所にはいるし、そいつらの視界に入らないようには気を付けないといけない。


 そいつらの視界に入る手前……そこを突撃するスタート地点にしたらいいな。


 俺は【風の衣】が周囲の枝や茂みに触れないように気を付けながら、ゆっくりと前に進んで行った。


 ◇


 ボスとの距離をさらに半分近く縮めることに成功したが……。


 未だにボスにも他の魔物たちにも俺の存在は気付かれていないようだが、そろそろ魔物たちの視界に入る位置までやって来た。


 これ以上近づくのは止めた方がいいだろう。


「ここまでだね。後はどうやって仕掛けるかか……」


【祈り】を使っていないから、先程の位置だと漠然と輪郭くらいしかわからなかったが、流石にこの距離だともう少しはっきりと見えてくる。


 サイズだけなら並のオオカミなんかよりもずっと大きいし、ほとんどトラとかライオンみたいなもので、大岩の上に立ってずっと前を向いている姿は、後ろからではあるが中々の迫力を感じる。


 森の外でジグハルトと対峙しているのや、森の浅瀬にいるのも似たような強さだったし、肉体的にもほとんど同じようなものだろう。


 まぁ……どこまでが本物の群れなのかはわからないが、大量の魔境の魔物を従えるだけの強さはしっかり持っているのは間違いない。


 だが!


「魔王種ってほど禍々しい雰囲気は無いし、ただの強い魔獣だね」


 一撃で倒せるかはともかく、【影の剣】も【緋蜂の針】も通じる相手だし、油断しなければ俺ならまず間違いなく勝てる相手だ。


 逃げられたり、周りの魔物を暴れさせられたら面倒だし……一気に仕留めてやる!


 スー……っと木陰から出て進路上にオオカミを収めると、【浮き玉】を加速させた。


1615


【浮き玉】は足で走るのと違って、加速に時間がかかったりはしない。


 一気に高速域まで速度を上げると、今まで音を立てないように避けていた木の枝なんかも全部無視して、ただ真っ直ぐ突っ込んで行く。


「……おっと!? 何か撥ね飛ばしたかな?」


 間に何もいなかったはずだが……樹上にでもいた動物を見落としていたかな?


 微かに鳴き声のような声を上げながらどこかに吹き飛んで行ったが、俺には何のダメージも無いし突撃の妨げにはならない。


 ただ。


「……っ!? 今ので気付かれたか!」


【風の衣】で遮られている上に既に衝突地点から離れているから、俺の耳だとハッキリとは聞こえなかったが、あのボスの耳には届いたようだ。


 初めは何事かと頭だけを後ろに向けていたが、俺の姿が目に入るとすぐに正面に捉えようと反転した。


 さらに、もう一体のボスや周囲の魔物に報せるために、吠えようと口を上に向けた。


 ここまでが一連の動作になっている。


 並の魔物だと、直前まで気配を察知することが出来なかった変な存在が、いきなり背後から高速で突っ込んで来ようものなら、驚いて動きが止まってしまってもおかしくない。


 突発的な状況にこれだけ淀みなく行動出来るのは、それだけ修羅場をくぐって来たからだろうか?


「まぁ、遠距離攻撃の対処法まで持っているくらいだしね。魔境の奥とかでとんでもないのから逃げ延びた経験でもあるのかな? でも……この速度で突っ込んで来るのとは戦った経験は無かったみたいだね!」


 俺は【緋蜂の針】と【影の剣】と【蛇の尾】を発動して戦闘態勢に入ると、【浮き玉】をさらに加速させた。


 もうオオカミとの距離は二十メートルもなく、一瞬で距離が詰まっていく。


 同時に左足を前に突き出して、正面から蹴りをお見舞いしよう……と考えていたが。


「むっ!?」


 オオカミは上を向いていた頭を戻すなり、後ろに向かって飛び退り、大岩の裏側に下りていった。


 仲間に報せるよりも、とりあえず自分が逃げることを優先したのかな?


 どっちを選ぶにせよ判断が早いのは悪くはないが、今回の判断は群れとしては失敗だな!


 裏側に飛び降りて俺の視界から姿を消したオオカミは、すぐに逃げ出さずにその場に身を伏せて止まっている。


 一旦俺をやり過ごしてから、その場を離れようとでも思っているんだろう。


「この速度なら普通は自由が利かないし間違ってはいないけど……! ちょっと甘いね!」


 俺は大岩を通り過ぎた直後にその場でクルっと方向転換をすると、岩の陰に潜んでいるオオカミ目がけて蹴りを放った。


 これは決まったんじゃないか……と思ったが、流石にボスを張るだけあってコイツも中々しぶとい。


 オオカミはあからさまにギョッとしたような反応を見せたが、俺の蹴りが突き刺さる前にその場を飛び退いて、着地するなり北に向かって走り出した。


 俺の蹴りで砕いた岩や地面の破片がいくつか当たったはずだが、大したダメージにはなっていないようだ。


 あっという間にその姿は小さくなっていく。


 だが。


「逃げを選んだか……でも、そっちを選んだのは失敗だね!」


 俺はオオカミの後を追うために、【浮き玉】を再度発進させた。


 ◇


 俺の蹴りを避けた際に採るべきベストの選択は、西に向かって走ることだった。


 周囲に魔物がいるし、何よりもう一体のボスもいる。


 さらに森の外には同格の一体もいたし、合流をすることが出来たのならボス格の魔獣が三体も揃っていたんだ。


 それだけいたら、逃げ延びることも不可能じゃなかっただろうけれど……ジグハルトの魔力に気圧されてしまったんだろうな。


 コイツは逃げるルートを北にしてしまった。


 完全に冷静な判断が出来なくなっている。


 これならもう、ちょっとタフなだけの巨大なオオカミってだけで、俺にとって何の脅威にもならない。


「追いついたっ!」


 振り向く余裕もなく、ただ真っ直ぐ走るだけのオオカミに追いついた俺は、その背中目掛けて蹴りを放った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る