第二章第四節<契機>
それからの数日、イースに冒険者たちから声がかかることはなかった。
松明を入れた荷袋を手に、意気揚々としていたイースだったが、次第に不安の方が強くなっていった。
しかしそれは当然だった。子供の数だけでも相当だ。二日続けて声がかかったことのほうが珍しいことだったのだ、と気づくまでにはそう時間はかからなかった。しかし、思いを巡らせていくうちに、イースは自分でも戸惑うほどの事実に思い当たった。
僕はどうして、そこまで「洞」に行きたいと思っているのだろう。
二日目にして、冒険者の死骸を見たはずだ。「洞」の力を浴び、歩く死者にも遭遇したではないか。金になるかもしれないし、腕も上がるかもしれない。しかし「洞」とは本来、死と隣り合わせの剣呑な世界のはずだ。
それなのに、自分は「洞」に行きたがっている。その理由の一つに、教会で出会った少年に認められていたということもあった。
もしかすると、あのときにもらった聖水がぼくを「洞」から遠ざけているのかもしれない、という考えに及ぶ夜もあった。信じられないことだったけれど、イースの心は「洞」へと導かれているようだった。
そしてある朝、イースは三度声をかけられることになった。
声をかけてきたのは大きな体をした男だった。
癖のある赤毛を無造作に短く刈り上げ、頬から耳にかけて大きな傷跡が目立つ男だった。身長は他の冒険者と比べても群を抜いて高い。胸や腕は言うに及ばず、もともと恵まれた骨格をしている上に戦うためにさらに肉体を鍛え上げたために常識を超える体躯をしていた。
「トールヴァルドだ」
そう名乗った男はやおら右手を差し出してきた。それが握手を求めているのだと理解するまで、少し時間がかかった。
「イースです」
少しためらってから、イースは男の手を握り返した。固くざらざらとした掌は、とても人間の体だとは思えないほどだった。
トールヴァルドからすれば、おずおずと手を握り返してくる少年はなんとも頼りなく見えたことだろう。しかし快活な笑顔を崩さず、トールヴァルドは少年を歓迎した。
「なんだ坊主、お前自分の荷袋を持ってんのか」
トールヴァルドはイースの足元に置かれたものを見つけると、顎髭を擦りながら頷いた。
「見せてみろ」
イースは中を開いて見せた。大したものは入ってない、ということは自分が一番よく分かっていた。
だがトールヴァルドは違った。中に入っているのが松明だと分かると、満足そうに微笑んでイースの頭を乱暴に撫でた。
「なかなか賢い選択じゃねえか。新米はとかく武器を買うもんだがなぁ」
指摘され、イースは何も言えなくなってしまった。もし金が足りたなら、トールヴァルドの言うように武器を選んでいただろう。店の主に適当に見繕ってもらった、とも言えず、イースは黙ってついていった。
トールヴァルドの仲間は大所帯だった。
見た目の通り、かなりの重量を誇る
なめし皮の鎧を纏った弓遣いは、黒い長衣を羽織っていた。「洞」の闇に紛れて奇襲を仕掛けるのだろうか。
そして最後は、初老の男だった。見るからに戦闘を得意とする人間ではなさそうだった。腰には使いこまれた革の巾着を提げていたが、黒い油の染みがある袋の中身までは分からなかった。
「洞」では、トールヴァルドと十字槍の男が並んで先頭を歩いていた。その後ろを弓遣い。一番後ろに初老の男とイースが並ぶ形になっていた。
しばらくは何事もなく進んだ。扉を抜けても、広間を横切っても、魔物に遭遇することはなかった。
「ちょっと待って」
弓遣いが初めて制止の声を上げたのは、やや幅の広い道が大きく曲がる角に差し掛かったときだった。
「どうした」
「音がする。何かいる」
トールヴァルドの顔に警戒が走る。さすがに物音を撒き散らして歩いているわけではなかったが、息を殺しながら音を探る。
だが残念ながらトールヴァルドには聞き取ることができなかった。十字槍の男も同様、視線で尋ねたが首を横に振った。
「俺が先に行く」
弓遣いはそう言うと、初老の男が持ってた松明を分厚い布を巻き付けて消した。それまで炎の光で押しやられていた闇が一気に迫り来る。
暗闇に慣れていないイースは、あっという間に視界を奪われた。幾重にも獣皮を重ねて作られた靴は、わずかな足音さえも立てることなく、弓遣いは通路の先へと進んだ。
聞こえてきたのは、湿ったものを引きずる音。最初は歩く屍かとも思ったが、それにしては腐臭がない。
息を殺して気配を探る。だが、弓遣いは困惑していた。
音は聞こえる。しかし気配がない。
獣であれ人間であれ、そこにいれば気配は生まれてしまう。わずかな身動ぎの音、衣擦れの音、そして呼吸。それらを探るが、全く見つからない。
だが同時に湿った音は続いていた。何かがいることは確かだったが、それが何か分からない。
威嚇のため、矢を番えて引き絞り、眼前に向けて放った。
空を裂く音が遠ざかっていき、岩壁にぶつかって折れる音までが聞こえる。闇の中から矢を射られれば僅かでも動揺するものだ。だがそれがない。
そのとき、イースは思い出した。
似たような状況に出くわしたことがあったではないか。あれは初めて「洞」に入ったときのことだったせいもあって、鮮明に覚えていた。
この様子は、あの時と同じだ。細かい記憶が次々に蘇っていく。そして最後に思い出したのは、ロベルトの言葉だった。
『あいつは、生物を溶かして食う』
どこまで弓遣いが進んでいったかは分からないが、それでも危険であることには代わりがなかった。
「トールヴァルドさん」
すぐ近くにいるはずの男の名を呼ぶが、返事はない。
イースはやや声を落とし、説明を付け加えてもう一度呼んだ。
「聞いてくださいトールヴァルドさん、もしかすると敵は上に居ます」
「どういうことだ」
トールヴァルドは最初、イースが暗闇に耐えかねていると思ったようだった。しかしその言葉を聞いて、相手の反応を間違って捉えていたことに気づく。
「前にドロドロしたやつと戦った人が言ってました、松明を投げれば分かります」
トールヴァルドが迷ったのは一瞬だった。
確証はなかった。しかし、こうまで闇の中で相手を探り切れていないことも異常だった。
「戻れ、アルベリク」
声と同時に闇の中で松明が燃え上がった。トールヴァルドが灯したものだった。
しかし行動は素早かった。闇が引き裂かれると同時に、アルベリクと呼ばれた弓遣いが軽やかな足取りで後退する。それまで彼がいた場所に、トールヴァルドが松明を投げる。
紅蓮の残像を描いて、松明の炎が飛んでいく。その松明が地面に落ちるよりも早く、真上から何かが落下してきた。
それは巨大な粘液の魔物だった。イースが初日に出会った者よりも数倍は大きい。松明の光は一瞬にして消され、辺りに鼻を突く刺激臭が広がる。
「それ以上近づくなよ、燃やして斃す」
初老の男は闇の中でも目が見えているようだった。小さな炎を灯した何かを背後から魔物に向けて放った。
ぱりん、と割れる音とともに、鮮烈な光が弾ける。それが粘液の魔物を包む大きな炎となるのは一瞬だった。
圧倒的な火力を前に、胸が悪くなるほどの悪臭を放ちつつ、魔物は苦悶に身を捩りながらなんとか逃れようとするが、無駄な足掻きだった。みるみる焼き尽くされ、動きが鈍くなっていく。ほどなく魔物は全身から煙を上げ、動かなくなっていた。
「やるじゃねえか、坊主!」
戦闘が終了した安堵感からか、いつになく大きな声でトールヴァルドがイースの背中を叩く。
低く太い声が「洞」の中に響き渡る。それが魔物を呼び寄せるかもしれないと心配するアルベリクだったが、それでもイースの言葉で命を救われたことには違いがない。あともう少し遅れていたら、あの魔物が頭上から降ってきていたかもしれないのだ。
「よく分かったな」
「以前に教えてもらったんです、部屋の中に松明を投げれば周りが見えるから……」
「大したもんだ」
槍の男と初老の男は何も言わなかったが、それでもイースの手柄は認めているようだった。
ひとしきり賞賛の言葉を浴びせたのち、トールヴァルドは最後にこう付け加えた。
「イース、お前さえよければ、俺たちのところで勉強しねえか」
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