番外編 カンナギの過去『孤独のスケッチ』 最終話

 切ない記憶の断片を紐解いた僕は一息つきたくなり、オットマン付きリクライニングチェアに腰を下ろした。柔らかすぎず、固すぎない、身体の強張りを解いてくれるような座り心地。祖父もこの椅子がお気に入りだったに違いない。


(「みんな仲良くしましょう」か……)


 お為ごかしな印象が強くて僕はどうしても好きになれなかったけど、あの先生が主張していた「みんな仲良く」を真っ向から否定するつもりはさらさらなかった。むしろ、僕はみんなと仲良くしたかったからこそ、あの女の子に声をかけたのだ。みんなと仲良くできて嬉しくないはずがない。掲げられた理想が最善のものであることくらいわかっている。


 だけど、悲しいかな現実は――、理想が通用するとは限らない。人の集まりが、いつも望ましい状況である保証はどこにもないのだ。

 状況が違えば、押し付けが過ぎれば、理想はただの暴論に成り下がる。事実、あのとき――あの三年A組内のちいさな人間関係においてですら、理想を実現させることはできなかった。

  

 友だちをつくること――すなわち、人と繋がることを、僕は「あたりまえ」にできる「ふつう」のこととは思えない。もちろん、運良く気の合う人とご縁があったりして、案外簡単にできる時もあるだろう。でも、残念ながらそういう幸運がしょっちゅう訪れるとは考えにくい。


 僕は人間関係にすっかり失望しているのではない(まぁ悲観する気持ちは少しある)。ましてや、「人間なんて……」とか、「どうせ友だちなんてできないんだ」などと安易に結論づけたいわけでもない。現実の問題として――ああ、言葉がうまく出てこないけど、いろいろな立場からしっかり考えてみたいのだ。ちゃんと言葉にして、伝わるようにしてみたいんだ。

 

 どうして、「繋がれる」ことを前提に話が進むのか。

 むしろ、「繋がれない」場面の方が圧倒的に多く、自然なことではないのか。

 繋がったとして、「繋がり続ける」ことの難しさや緊張感から逃れられるのだろうか。


「集団」を経験した者であれば、程度の差はあれど、こうした感覚は誰にとっても無関係ではないはずだ。自分のような子どもがそう思うのだから、経験が豊富なはずの「おとな」が気づいていないはずがない。といっても、あえて気がつかないように努める方が賢い生き方なのかもしれないけれど。


 ――いいや、不器用な生き方でもいいんだ。

 僕はそう自分に呼びかけた。おじいちゃんが大好きと言ってくれた「僕」なんだから、胸を張っていかなくちゃ。

 まずは形だけでも、と猫背をぐっと伸ばすように背もたれに上半身を預け、体重をかける。すると背もたれが自然と後ろに傾き、その動きに合わせてオットマンが起き上がり僕の脚を支えた。


 なるほど、これはいい。身体に沿ったクッションが全身を包み込む。

 座り心地だけでなく、寝心地も最高だ。リラックスし始めた頭で、僕は思いを巡らせる。


 手紙をくれたあの子――カナちゃんとは、最後まで言葉を交わすことはできなかったけれど、きっと心を痛めていたように思う。本当は、とても優しい子だったと思うのだ。もしかすると、カナちゃん以外にも心を痛めていた子が、優しい子が、あのクラスの中にいたのかもしれない。


 でも、そういうひとりひとりの性格や性質を封じ込める「集団」の力があるとしたら、それはどんなものなのだろうか。僕は無意識に拳を強く握った。


 目に見えないけど、たしかにあるもの…散々言われてきた「あたりまえ」を超えようとする先に見えてくるものがあったとしたら――「社会学」をとおしてなら、近づくことができるかもしれない、カタチにできるかもしれない。

「あたりまえ」とは違う見方があるんだってことを、この「社会学」が教えてくれる。想像しただけで、僕の鼓動は早くなった。


 表現し難い、言葉になれないもどかしいうねりは、僕の中でまだまだたくさん蠢いている。わからないことも、たくさんある。


 だけど――


 僕は部屋をぐるっと見回した。

 祖父が遺してくれた秘密基地は、選りすぐりの本が集められた贅沢な図書室としての機能と、僕が好きなだけ本に没頭できるような居心地のよさを兼ね備えていて、それはまるで僕のためにつくられた研究室みたいだった。

 そう、ここには僕がわからないことに立ち向かうための手がかりや足がかりが詰まっているんだ。僕はオープン棚にびっしりと並べられた社会学関連の蔵書群を見て、期待に胸を躍らせた。


 スマホのカレンダーアプリを起動し、確認する。あと一週間もしないうちに夏休みだ。夏休みに入れば一日中この秘密基地――僕の研究室で好きなだけ本が読める。いや、一日中好きなだけ本を読むなら、先に夏休みの宿題を片付けておかなければ。僕の頭が早速スケジューリングを開始する。


 各教科の問題集は夏休みが入る前には配られるから、もらったその日から取り組んで、少なくとも三日以内に終わらせよう。読書感想文、自由研究についてはこの研究室にある書籍で賄えそうだな……よし、これで夏休みの時間を丸々確保できたも同然だ。


 そうそう、本を読むなら付箋がいる。研究室用のノートや三色ペン、蛍光感が控えめのイエローマーカも用意しなくちゃ。それから……

 僕の上半身がガクッと傾いた。

 まだまだ考えたいことがあるのに、急激にまぶたが重くなり、視界がぼやけていく。


(眠い……そういえば喉渇いたな……)


 泣き疲れた身体に興奮し続けた脳。突然襲ってきた眠気に、僕はようやく自分の身体の状態を悟った。

 少しだけ、休もう。起きたらまずは飲み物を持ち込んで、今日はとりあえず本の続きを……あ、スマホのアラームをセットしなくちゃ……――――

 


「侑! 侑‼︎ 居るんでしょ⁈ 大丈夫なの⁈ 返事して‼︎」


(…………お母さん?)


 僕を起こしたのは、ドンドンと扉を激しく叩く音と、ひどく取り乱した母の声だった。僕は反射的に「はーい!」と返事をしながら、寝ぼけ眼でスマホに手を伸ばす。時間を確認し、僕は青ざめた。ほんの30分ほど仮眠をとったつもりが、どうやらかなりの時間眠っていたらしい。慌てて上体を起こし、扉を開けると母が今にも泣き出しそうな表情で「よかった……」と言ってへたり込んだ。涙目で弱々しくうずくまる母の姿に、僕は大いに動揺した。


 最近の僕の憔悴ぶりから、色々とよからぬ想像をしてしまったのかもしれない。いるはずの部屋に僕がいないことに気づき、狼狽え、心配する母の姿が映像となって僕の頭に浮かび、その不安に押しつぶされそうな心情までもが僕の心に流れ込んできて、僕の胸は張り裂けそうになった。

 故意ではないとはいえ、心の底から申し訳なくなって、謝罪の言葉を口にしようとした瞬間 


「ゆー、げんきになった? かくれんぼ、したくなった?」

 

 弟のたけるが母の後ろからひょっこりと出てきて、僕を上目遣いに見上げた。続けて「ぼく、かくれるの、とくいよー!」と両手を腰に当て胸を張った。


 母とは対照的すぎる緊迫感のないその姿に一瞬思考が停止する。か、可愛い……。弟の無垢な可愛さに僕は思わず笑ってしまう。が、呑気に笑っている場合ではなかった。はっと我に返り、早く謝らなきゃ――と母の方を見れば、どうやら母も和んだらしく泣き笑いのような顔で武の頭を撫でている。


 今度こそ――僕はぐっと表情を引き締めた。ごめんなさい、の「ご」が出かかったまさにそのとき


「お腹空いてない? 久しぶりに、ご飯ちゃんと食べたら?」


 母がそう言いながら立ち上がり、武の手をひいて母家の方に歩き出した。

 叱責や小言を覚悟していた僕は拍子抜けして反応するのが遅れてしまったけれど、母の温かい言葉に嬉しくなり二人の背に向かって「うん」と頷いた。急いで祖父の手紙を取り、秘密基地に鍵をかける。


 心がじんわりとあたたまっていくような安心感に包まれて、僕は一歩を踏み出した。 


 これからやるべきこと、やりたいことが山のように待っている。

 僕はきっと「大丈夫」だ。 



(了)


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