第59話 夜桜
イチはバイトを終えると舞子と待ち合わせをしている九段下のイタリアンに急いだ。
イタリアンと言ってもピザとパスタしかないイチでもご馳走できるお店だ。舞子はいつもご馳走すると言ってくれるが、そうすると誘いにくくなるからと交代でご馳走することにしてもらっている。舞子はイチでも払えて美味しいお店を探してくれるようになった。
ここで食事をしてから千鳥ヶ淵の夜桜を楽しむ予定だ。
店に入るとイチに気づいた舞子が微笑んで手をあげた。イチは心臓の高鳴りを感じて慌てた。好きだと気付いた途端、心臓も正直に反応している。
自分を落ち着かせるために深呼吸して歩き出した。
千鳥ヶ淵は飲食が禁止されているせいか、土曜日の夜だからか思ったよりも人出は少なかった。
飲食が禁止されていたら酔っぱらいに絡まれることもないし、とても歩きやすかった。
桜の枝がお堀に大きくせり出し石垣に桜が映える。散った花びらがお堀の水に浮かんで、それもまた綺麗だった。
そういえば夜桜ってちゃんと見たことがない。桜って花を一つだけ見ると寂しげなんだけど群生だと華やかになる。不思議だと思った。ライトアップされた桜は夜の暗さにも負けない華やかさだ。
ヨンが言うように夜は冷える。舞子を見ると寒そうだった。イチは鞄からヨンから借りたマフラーを出して舞子の首に巻いた。
「ありがとう。大学生がカシミヤのいいマフラーしてるじゃない。それにいい匂いがする」舞子はマフラーを鼻先まで持ち上げた。
「ヨンのだからいいマフラーだよ。夜は寒いから持って行けって貸してくれた」
舞子は慌ててマフラーを普通に巻き直した。
「危なっ!良い香りと肌触に顔を埋めそうになったじゃん」
イチは俺のだったら顔を埋めてもいいってことなのかと確認したい気持ちを抑え、そう思い込むことにした。
「その香水、ミント系で爽やかな香りだよね」
「えっ、あのなりで香水付けてるの?」
「レイからのクリスマスプレゼント。レイと出かける休日しかヨンはつけてないけど」
「レイの趣味か。無精髭もそうでしょ?」
「うん。ヨンは大学生の頃から服はレイと買いに行ってたし、割と前からレイの影響力が強い」
「そんな前から?」
「ほら、ヨンに『その服はさらに怖そうに見えますよ』とか『明るい服は別の意味で怖いですね』なんて誰も言えないから。ヨンは辛辣な意見を言ってくれる人と買い物に行きたいんだって」
「レイと行く口実じゃん」舞子は笑った。
「でもヨンに限らず男は好きな人にかっこいいって思われたいから、その人の好みに合わせるよ」
「カズくんも?」
「もちろん。舞ちゃんがヒゲが好きなら伸ばすし、坊主頭がいいって言うなら坊主にするよ」
「やめて。カズくんの坊主頭は見てみたいけど、嫌だ」
イチは間接的に舞子が好きだと言ったのだが軽く流され舞子はイチの坊主頭を想像したのか、おかしそうに笑っていた。
イチは歩きながら舞子の表情ばかり見ているせいで舞子の周りを右に左にと歩いていた。
「まとわりつかないで、真っ直ぐ歩いてよ」
とうとう舞子が笑いながら訴えた。
イチは少し考えた後、思い切って舞子の手を取る。
「手を繋いだら真っ直ぐ歩くしかなくなるから」
「今の若者は……。ジェネーレーションギャップを感じるわ」
そう呟いた舞子にイチは笑いかけ繋いだ手に力を込めた。
「全く、かわいいんだから」
舞子は寒いせいもありイチの手が温かく心地よかったので、思わず呟いた。
舞子の言葉にイチは落ち込んだ。少しも、ときめいてもらえてない。勇気を出して手を繋いだのはいいけど完全に子供扱いだ。
タイミングを間違えた。
でも今日は手を繋げたことだけ記憶に残しておこうとイチは前向きに考えるようにした。
イチが舞子を見ると、満面の笑みを返してくれた。先は長いと思ったが、その笑顔に少しだけ希望が持てた。
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