白鳥 Ⅰ

 祖母の葬儀以来の実家の、エレイクの一族及び重臣のみが坐すことを赦される席には、既に父と兄が揃っていた。

「よ、兄貴久しぶり。機嫌はどうだ?」

 ロスティヴォロドが軽く煽ると、元より怒りを湛えて引き攣っていた兄の面は更に歪んだ。異母兄ヴィシェマールはグリンスクの更に北に配されている。シチェルニフに隣接するトラスィニを預かるロスティヴォロドはともかく、なぜヴィシェマールまで呼び寄せられたのかというと――

「愛しの婚約者様がシャロミーヤの使節の男と恋に落ちて、ヤっちゃったんだって? 」

 兄の婚約者であるフリムリーズ姫が事の発端だからに他ならない。

 ロスティヴォロドより一つ年下のフリムリーズ姫は今年で十八。約束の春はもう数か月後に迫っているというのに、シチェルニフ公はいっかな婚礼の準備を進めない。ゆえにシチェルニフ側を訝って密偵を放ったところ、フリムリーズ姫は既に純潔を失っていたとの驚愕の事実が判明したのである。兄の名誉に関わることなので、従士でも上位の者以外には、シチェルニフが裏切ったとしか知らせていないが。

 兄が未だ異教徒であるか、もしくは姫が貞潔を保つをよしとする天主正教の教えを授けられていないのであれば。さすれば姫が処女でなくなったとしても、一切の滞りなく婚儀は行われていただろう。だが、異教徒なれど天主の徒たる兄に嫁ぐべく教育を施された公女が、既に無垢でなくなったとくれば。それが無理強いされての結果であれば同情できもするが、純然たる己が意思による選択なのだから、軽率のそしりは避けられまい。ついでに、あばずれと罵られるのも確実だ。

「ま、帝国の名家の洗練された美男子に言い寄られたんじゃあ、兄貴じゃ敵いっこねえわな」

「黙れ」

 姫が純潔を捧げた相手は、なんと義母の実家の子息。あの家は、義母が犯した失態を未だ邪教を奉じているシチェルニフの改宗で挽回せんと、熱心に使節を送っていたと聞く。諸々の事情を踏まえれば、ありえなくもない話だった。

 熱意に溢れる若者が、異教の地で美姫と運命の出会いを果たす。実に燃え上がりそうな恋の始まりではあった。フリムリーズ姫が兄の妻となると定められていたのも、恋人たちにとっては愛の炎に投下する格好の燃料となったろう。

「俺も一応名家に生まれた美男子だけど、あっちじゃ奴隷の息子って馬鹿にされてるみたいだしなー。兄貴たちの代わりに妹のシグディース姫に結婚申し込んでみてもいいけど、お呼びじゃねえだろうなー」

 くつくつと笑いを噛み殺しながら兄の様子をちらと窺うと、しっかりとした肩は堪えきれぬ憤怒に震えていた。よほど婚約者が巻き起こした不祥事に耐えかねているのだろう。顔に泥どころか犬の糞を塗りたくられたも同然だから、当然ではあるが。

 しかも、此度の一件で恥辱を受けたのは、兄だけではない。これは自分たちエレイクの一族全体の沽券にかかわる一大事なのだ。これでシチェルニフに攻め入らねば、自分たちは事情を知る戦士たちになんたる腰抜けよと嘲られるだろう。

「兄貴もなあ。ちったあお袋さんに似てりゃあ良かったのに」

「黙れと言っているだろう!」

 長兄の、夕陽に照らされたのでもないのに真っ赤になった顔は、父とほとんど同じ造りをしている。落馬して死した次兄は、凛々しい美女だったという父の先妻に瓜二つと評判の、紅顔の美少年だったのだが。

「ヴィシェマールを揶揄うのもそれぐらいにしろ、ロスティヴォロド」

 腹を抱えて笑う振りをしていると、父の物々しい声が轟いてきた。兄とそっくりだが兄にはない威厳を漂わせた容貌は、在りし日よりもいささかやつれている。五歳という幼さでイヴォルカの支配者となってからずっと自分を補佐――言い換えれば守ってくれていた祖母の死が応えているのだろうか。戦を好むあまり、隠居した祖母に政治を任せ戦場へと赴くことも多々あった父だ。血を沸かせず肉を躍らせもしない政治に専念せねばならぬ日々は、父にとっては退屈どころではないのかもしれない。

「へいへい。分かったよ」

 しなやかな長い脚を組み、頬杖をつきながらも応えると、父は元来鋭い目を研ぎ澄まされた剣さながらにした。重大な決断を下そうとしている際の、父の癖だ。

「皆の者、よく聞け」

 低い低い、獣の威嚇めいた囁きは、さして張り上げられていないのに広間中に響き渡る。

「此度のシチェルニフの振る舞いにおいて真の争点は、上の公女が我が息子と婚約しておきながら他の男を通わせたことでは断じてない」

 居並ぶ重臣たちはもちろん兄ヴィシェマールもまた、唇を引き結んで父の次なる言葉を待っていた。

「シチェルニフ公エイムヴァルが、長女の夫を――嫡男ヨギルの次の己の後継の候補を、我らエレイクの裔の一族以外の者から選ぶ姿勢を示した。これこそが由々しき事態なのだ」

 父はやはり、いずれシチェルニフをも掌中に収めんとしていたのだ。リューリヤの喪失に直面した日の自分の推測は正しかったらしい。だがそれにしても、リューリヤを死に追いやった男の娘が、公女であり未来のグリンスク大公妃という地位にありながら色恋に現を抜かすとは。どころか、自分自身どころか家族や領民までをも危機に晒すとは。なんとも面白い巡り合わせであった。

「フリムリーズ姫の恋人とやらが、エイムヴァルの配下の誰ぞの子息であれば。姉が犯した失態の償いとして妹の方を差し出すというのであれば、まだしも赦せたものを。よりによってシャロミーヤの、我が妻の一族の者を新たな婿に選ぶとは。よしんばそのつもりがなくとも、帝国と手を結んで我らに取って代わらんとしているも同然の所業、断じて看過しておけぬ」

 かくなる上は剣と斧を振るい、矢を放つにくはなし。シチェルニフと我ら、どちらかが斃れるまで。

 厳かな宣告が締めくくられてしばらく経っても、重臣たちは雷鳴に打たれたかのごとく呆けていた。ややしてイヴォルカの地位有る男の証たる髭に覆われた面に登ったのは、紛れもない歓喜と陶酔である。

「防具を纏い武器を携え、直ちに愚かな裏切り者どもを罰しに向かいましょうぞ!」

「我ら皆、大公様とその御子息の栄誉と繁栄のためならば、この身に流れる血潮の最後の一滴まで捧げる覚悟です!」

 狂喜は病となって周囲に伝染し津波となって周囲を攫い、広間は瞬く間に野太い歓声で割れんばかりになった。終いには父の若かりし頃の武勇を讃える即興の歌まで飛び交う始末である。

 自分よりも遙かに年嵩の男達の熱狂ぶりに、ロスティヴォロドはいささか呆れもしたが、それ以上に誇らしかった。命を捧げても惜しくないとまで配下に慕われる君主が、己の父であるということが。

 ロスティヴォロドもまた父の従士たち同様、たとえ敵の刃によってくずおれ、敵の矢によって心臓を射抜かれようとも、戦い抜く覚悟である。だが、決戦はまだ当分先だろう。いくら領土や兵の規模において格段の違いがあろうと、シチェルニフを落とすとあってはそれなりの数の戦士を率いねばならない。加えて、もうすぐ始まる雪解けは大地を泥濘に代え、行軍を不可能にするだろう。どんなに偉大な君主も、自然には抗えないのだ。

 それに父は、この地を守るためとはいえ時に非道な策も弄した祖母とは違う。父は常に、敵も味方も互いの力を尽した争いに拘ってきた、誰もが知悉し誰もが讃える勇士気質の持ち主だ。その父が、シチェルニフに奇襲を仕掛けるなどと、卑劣な真似をするはずがない。

 幾ら自分たちに恥辱を味わわせたとはいえ、父は戦を交えるに十分な礼節をもって、相手を迎え討たんとするはずだ。横目でちらと窺った限りでは、兄もまた家臣たち同様、今すぐにでもシチェルニフを討伐したいらしいが。

 ヴィシェマールは、婚約者に裏切られたのがそんなに悔しいのだろうか。フリムリーズ姫は美女らしいが、妹のシグディース姫は姉よりももっと麗しいと聞く。いっそ不貞を犯した婚約者はさっさと捨てて、より美しい妹姫の方をもらい受けるぐらいの柔軟さを示せばよいものを。

 だいたい、顔を見たことも言葉を交わしたこともない女に、どうしてそれほど執着するのだろう。……などと兄に問いかけたところで、まともな答えなど返ってくるはずはなかった。現在でもリューリヤを忘れかねている自分ができる指摘でもない。

 自嘲しながら瞳を巡らすと、上座に坐す父とふと眼差しが交錯した。恐らく父も、家臣たちの熱狂が醒めるのを待っているだろう。シチェルニフ攻略のための軍略を練るために。それにしては父の瞳は静かで、物問いたげでもあったが。

 俺に何か言いたいことがあるのなら、はっきり言ってくれよ。

 逞しい胸に過った一抹の感情を青年が父にぶつける機会は訪れなかった。戦の準備に追われる日々が始まったために。

「ロスティヴォロド」

 父の悲哀さえ帯びた目配せの意味を青年が知ったのは、とうとう訪れたシチェルニフとの運命の日を、勝利の喜びで飾った後。敗戦の後屋敷に逃げ込んだらしい公と、その妻子を探させている最中であった。

 シチェルニフ公専用であったろう席に坐す父は、いつになく慈悲深い、優しすぎてこちらの不安を誘う声で囁いたのである。もしシチェルニフ公の娘たちが生きて見つかったら、姉の方は兄ヴィシェマールが欲しがっているからくれてやるつもりである。だから、妹の方はお前の物にすればいい。妹姫が下々の者がほめそやす通りの美少女ならば、お前も気に入るだろうからと。

 つまり父は、シチェルニフ公の下の娘をリューリヤの代わりにすればいいと勧めてきたのだ。どんな者もリューリヤの代わりになれるはずはないのに。そういえばロスティヴォロドの従士として戦列に並んだアスコルも、前夜そんなことを言っていた。お前はリューリヤのために戦うのだろうと。

「……何言ってんだよ、親父」

 血の臭いで澱んだ大気を揺るがす絶叫が遠くで飛び交う最中、どうにか絞り出した応えは幽かに震えていた。

「これは復讐でもなんでもない。ここんとこの公が俺たちにたてついたから討伐した。ただそれだけのことだろ?」

「まあ、それはそうだが、」

「それに、そんな美少女ならシャロミーヤの金持ちの変態爺に売り払った方が得だろ? きっといい儲けになるぜ」

 勤めて普段の調子を意識したのだが、父に通用したかどうかは定かではない。だがロスティヴォロドは、己の腕の中からすり抜けていったリューリヤについて、誰にも触れられたくなかった。それが生まれてほとんどの月日を共にした従兄のアスコルや、信頼し尊敬する父であっても。ただ一つだけ、リューリヤが選んだ道について納得できない部分があるからこそ。

 周囲の者は、相思相愛の仲であった婚約者を喪ったロスティヴォロドや、復讐の犠牲となって散っていった少女にいつも同情的だった。中には、リューリヤはロスティヴォロドを愛していたからこそ、性奴隷として売られる――他の男に身を穢されるよりはと自死の道を選んだのだろうと、慰めを垂れる者もいた。そしてその度に、ロスティヴォロドはしばし考え込んでしまうのだ。

 自分は、リューリヤが生きてくれてさえいたのなら、かねてからの約束通りに妻として迎えた。どんな遠方に売られていようと必ず探し出して。数え切れない男に抱かれていようが、他の男の子を孕んでいようが、構わずに。

 しかしリューリヤは恥辱の生よりも名誉ある死を選んだ。とすればリューリヤはロスティヴォロドを、彼女が意思に関わらず純潔を失えば、彼女を見捨てる薄情な男だと認識していたのだろうか。

 分かっている。貞操を穢されるというのは、女にとっては身を斬られるよりも、もしかしたらそれ以上の苦痛を、生が続く限り味わう羽目になる屈辱だとは。だから、リューリヤが死を選んだのは少しもおかしいことではないのだとは。これは結局、ただの身勝手な我儘にすぎないのだとは。だがそれでもロスティヴォロドは、リューリヤに生きていてほしかったのだ。

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