落葉 Ⅳ

 自分のことなど誰も祝福していない結婚式。考えるだけで面倒だった日を迎えるにあたって、シグディースの精神を最も安定させたのは、花嫁衣裳でも天候でもなく、悪阻が落ち付きつつあるという事実であった。満腹になると気分が悪くなるのは相変わらずだったが、ならば食事の量を制限すればよいのである。また、寒冷なイヴォルカでは育たないが、天主の故郷では盛んに栽培されている檸檬に甘橙オレンジという果物の蜂蜜漬けは、むかつきを和らげてくれた。

 この頃になると腹も少しせり出してきたが、イヴォルカの花嫁衣裳はゆったりと作られる。大事に収納しておいて、老いて棺桶に入るかつての花嫁が再び袖を通すこともあるぐらいだ。少々の膨らみならば目立たない。もっとも式に参列するのは、シグディースの妊娠を把握している者ばかりだろう。だから腹を隠すのは全くもって無意味なのだが。

 イヴォルカの民は、ロスティヴォロドの父に半ば以上は強制されて、婚前までは純潔を保つをよしとする教えに改宗した。民草にしてみれば、だのに大公は処女でなくなった女を娶るというのは面白くないかもしれない。

 見物に集まった民衆から怒りを買わないためとすれば、腹が本格的に突き出ないうちに結婚するというのは正解かもしれなかった。それにそろそろ夫婦にならないと、幾らなんでも早産で誤魔化せない。

 イヴォリ人の風習では牡牛を生贄に捧げ、主神の妻である女神に祈りを捧げれば結婚が成立する。生贄は、真っ黒だったり真っ白だったり角が見事だったり、とにかく美しい牡牛であれば何でもよい。

 一方、天主の徒が夫婦となるには、聖堂で神に永遠の愛を誓わなければならない。それもまた面倒なところだった。イヴォリ人もイヴォリ人で、婚礼の宴に招く客の数やら席次やら返礼の品やら、気を付けなければならぬ事項は多々あるのだが。

 面倒事はなるべく一か所で済ませたい。そう願ってしまうのは、シグディースが身重だからなのか。

「疲れてるかもしれんが、もう少し頑張れよ」

 とにもかくにもシグディースは、晴れて――と形容していいかどうかは分からないが夫となった男に支えられながら、聖堂から大公の屋敷の宴会の間に移った。それからまずは、焼きたての丸い麺麭が乗せられた盆を受け取り、一欠けら千切って添えられていた塩を付けて口に運ぶ。

 次は、着飾った奴隷に運ばれてきた蕎麦のカーシャを、夫と同じ匙で口に運ばなくてはならない。サグルク人の間では、同じ麺麭と同じ皿に盛られた粥を食べなければ、夫婦になったと認められないらしいから。これはロスティヴォロドに教えられた風習なのだが、彼は支配する民の伝統に詳しい。流石、母親と祖母がサグルク人なだけはある。

 このところ主食への身体の拒否感はすっかり治まっていたので、牛酪バターと蜂蜜で味付けされた一匙を嚥下するのは困難ではなかった。気分が悪くなったところで、息を殺して自分たちの口元を凝視する招待客を前にして、吐き出せるはずがないのだが。

 なんにせよ、シグディースが濃厚に炊かれた粥をこくりと嚥下した瞬間、沸き起こった歓声はけたたましいほどで。

「おめでとうございます、大公様」

「大公様は凛々しく、お妃さまはお美しい。本当にお似合いのお二人です」

 招待客は思ってもいないだろう祝辞を次々に述べてきた。酔狂もここまで行くといっそ関心すると、眼差しで物語ながら。

「そうだろう? 特にこいつ。花嫁衣裳を着せたらあんまり綺麗だったから、毎日顔を見てる俺でも驚いたんだが、お前たちはもっと驚いただろうな」

「ええ。まさしく眩いばかりの麗しさです。流石、我らの女主人となるべく大公様が選ばれた御方だ」

 招待客の本音を見透かしているのかいないのか。ロスティヴォロドは暗い紫の瞳を細め、さも愉快そうに早速酒杯を傾ける客の様子を眺めていた。

 腹の底はさておき、表面上は笑顔を交わし合う招待客。その中には、ほんの三、四ヶ月前までは生活を共にしていたアスコルの姿も混じっていた。しかも、花婿であり家長であり、イヴォルカという国の長でもある、ロスティヴォロドが坐す高座の近くに。イヴォリ人の価値観では、それはアスコルの社会的地位が余程高いか、ロスティヴォロドにとって重要な人間であることを意味する。もしかするとアスコルは、ただの従士ではなかったのかもしれない。

 正直シグディースはこれまでアスコルの存在をすっかり忘れていたのだが、懐かしさも慕わしさも全くもって覚えない顔を凝視せずにはいられなかった。

 視線に感づいたのだろう。アスコルは何か言いたげな様子で、ロスティヴォロドの隣のシグディースを見つめ返す。が、腹が立ったのですぐに目を逸らしてしまった。これ以上あの姿を視界に入れていると、シグディースはアスコルに殴りかかっていたかもしれない。三年も私を騙しておいて今更そんな表情をするでない、と。

「ほら! お前、木苺とか甘酸っぱいやつ好きだろ?」

 それに、隣のロスティヴォロドが煩わしいので、アスコルなどにかかずらう余裕は正直無かった。ロスティヴォロドは何故か口移しで、シグディースに菓子やら乾し果物やらを与えたがる。なので、一々付き合うのは大変だった。ついでに、シグディースがロスティヴォロドにせかされ接吻するたびに歓声を上げ、囃し立てる男共は鬱陶しい。

「これならきっと沢山の子宝に恵まれるでしょう」

「お世継ぎの誕生が待ち遠しいですな」

 男かどうかは定かでないが子宝なら既にシグディースの腹にいるのに、わざとらしいにも程があった。既に日は傾きつつあるとはいえ、イヴォリ人の伝統に倣って今日も含めて宴は三日も続くのだ。溜息を抑えきれない

「どうした?」

 目立たぬようにと押し殺していたのに、ロスティヴォロドはシグディースの重い吐息を鋭敏に聞き取った。

「何もありはせぬ。そなたは黙って酒を呷っていればよかろう。ほれ、器が空になっておるぞ?」

 暗に放っておけと告げたつもりだったのだが、こういうところは鈍感な彼には通じなかったらしい。急に逞しい腕を背に回されたため身を硬くした次の瞬間には、シグディースはロスティヴォロドに抱きかかえられていた。

「じゃあお前ら、朝まで適当にやっててくれ」

「た、大公様!? 一体どちらに……?」

「新婚の夫婦が結婚当日の夜にやることなんざ、決まってんだろうが!」

 確かにそれはそうだし、それこそが婚姻の儀礼において最も重要な事柄である。だが自分たちが行う必要はあるだろうか。初夜なぞ、とっくの昔に済ませてしまったのに。シグディースがこの男に純潔を売り渡したのは、夜ではなかったが。

 とりとめもない疑問を発する間もなく、花嫁は夫婦の寝室まで連行された。そうして柔らかな寝台に降ろされて初めて、ほっそりとした四肢はやっと解れた。今まで気づかなかったが、緊張していたのだ。

「今日はよく頑張ってたな。それに、本当に綺麗だった」

 家族を殺した男が紡いだものでなければ、その甘さに心も体も蕩けそうな文句が、耳元で囁かれる。大きく骨ばった手は豪奢な衣裳を瞬く間に脱がせた。

 耳朶を食んでいた唇は細い首を辿り、更に大きくなったふくらみの先端に辿りつく。

「お前、腹もだけど乳も大きくなったよな。もっと大きくなったら、そのうち母乳も出るようになるんだろうな」

 色濃くなった頂をころころと舌で転がされると、上ずった声が漏れてしまう。同時にしなやかな背を硬い指先で撫でられると、声は一層高くなった。

「そ、そなたもしや、母乳の味に興味があるのかえ?」

「正直に言うとあるな」

「な、ならば、どうにかして思い出せばよかろうが。そなたとて昔は飲んでいたのであろ?」

「それ、何十年前の話だと思ってんだよ。もう忘れちまったに決まってんだろ」

 腹を潰さぬようにそっとシグディースに覆いかぶさる男は、胸への刺激をやめない。揉んだところで、白い液体は滴るどころか滲むはずもないのに。

「頼むから、出るようになったら少し飲ませてくれねえか?」

「――阿呆か! なぜ我が子にも飲ませぬのに、そなたに飲ませねばならぬのだ!」

 これが新婚初夜に交わす会話かと思うと、果てしなく微妙な気分になってしまった。だが自分たちの本当の初めての場は、二つの亡骸が転がる血みどろの惨状であった。だから、あの日と比すればばまだそれらしい情緒はあるのかもしれない。

「……やっぱ駄目か」

「当然であろう!」

 かかと破顔し愛撫をやめた男は、以前シグディースにできるだけ多くの子を産んでほしいと言ってきた。

 未だ完全には服従していないサグルク人の部族。入植して土地を得るにつれ、すっかり先住民の土豪貴族と同化してしまった同胞の富裕層の牽制。またその他諸々の務めを果たすには、各地に公として派遣する息子が必要なのだと。そのため、生まれる子には乳母が付けられると既に決められていた。乳をやっていたら次の子を孕めないから。ゆえにシグディースは、赤子を抱きはしても乳を含ませはしないだろう。

「俺に似てるのか、お前に似てるのか、どっちだろうな」

 ロスティヴォロドは、愛おしげに撫でまわし接吻する腹にいる赤子が女児であったら、落胆するのだろうか。シグディースを妻にしたのは愚かであったと後悔するのだろうか。その様を想像するとなぜだか胸が軋んだ。ロスティヴォロドが何を思おうが、シグディースの復讐には一切関係がないはずなのに。

 体が冷えてはいけないからときちんと服を着せられ、シグディース同様に楽な格好に着替えた夫の、太く逞しいかいなに抱かれながら目蓋を下ろす。どうか次に目覚めた時は、自分の中に巣食い、刻一刻と大きくなる想いが消え去っていてくれればと祈りながら。けれども神は、シグディースの血が滲まんばかりの願いを聞き届けてくれなかった。

「起きたか?」

 寝台から降りていたロスティヴォロドは、大きな包みを寝ぼけ眼を擦るシグディースに近づいてきた。

 ぼんやりとした視界と頭ではやや時を要したが、ロスティヴォロドが色も模様も様々な布や、細工も見事な首飾りや腕輪の数々を差し出してきた瞬間、理解した。イヴォリ人の間には、初夜の次の朝に夫が妻へ服や装飾品を贈る習わしがある。

「これとか、お前に絶対に似合うぞ。早速一着仕立ててみろよ」

 贈り物の布なかでも一際目を引く絹地は、シグディースの双眸と同じ矢車菊の青だった。

「……今仕立てた所で、すぐに着られなくなるに決まっておろうが」

 とっさに顔を俯かせたのは、熱を帯びた頬を隠したかったからだった。目の前の男の鋭い瞳からも、自分自身にも。

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