第百九十七話:姿見の日
パカラパカラと、早朝の道を馬車がひた走る。
下り坂の多かった先程までの徐行を経て、いまは少しばかり優雅とは言い難い速度で、リングホースは平地の道を踏み締めていた。
まるで世界から何かを覆い隠そうとする朝霧の濃さは、シィライトミア領域を抜けた途端に、幻だったみたいに消え去った。今は、朝方の静けさに揺れる幾々色の花々に、薄い白がかかって見える程度である。
シィライトミア領域は山間を切り拓いた土地である。標高差と豊富な水量を思えば、シィライトミア領域内だけに広がる濃霧は理屈の通った自然現象であったけれど、登山経験もなければ霧についての学も持ち合わせないリプカからすれば、それもシィライトミア領域が内包する不可思議の一つに思えて、誰かの空想に迷い込んだような夢心地の気分に浮かされた。
朝が明けるまで、まだ時間がある。その静謐の中で揺れるアルメリアの花々はなんだか可愛らしく、リプカは思わず微笑んだ。
「朝露に濡れた景色を望めただけでも、早くに起きてお布団の外へ踏み出た甲斐があったと、そう思いませんか? とっても素敵な景色。空気も澄んでて美味しいな」
「――――思いませんよもぉ。空気? 無駄に体が冷えるんだよ我が故郷の朝方は。カンヅメに詰めて売れるというのなら、少しはマシに思えますけれども」
弾むリプカの声に、邪険な言葉を返したのは、客車でうたた寝モードの体勢を取っていた、アンヴァーテイラであった。
先程まで本当に眠っていたのか、コートを羽織りながらもまだ寒そうに身を小さくしている。目をしばしばさせながら、ため息を吐き出した。
「シャンメリー一本で朝方まで付き合うとは思わなかった。こうなってくると酒を飲んでなかったことは幸いでしたかね」
「…………? 昨晩はあまり眠れませんでしたか?」
「まあ。ま、いざとなったら自宅で仮眠を取りますよ。ニ十分寝ればだいぶシャキっとしますから、たぶん、そんくらいの時間はあるでしょう」
アンヴァーテイラの自宅。
そう、もうすでに踏み入れたところではあるが、本日の目的地は、アンヴァーテイラの故郷であるアルメリア領域であった。
――昨日の
「アン様」
やっとのこと死体然から息のある肉人形程度には回生したアンへ、リプカは話を持ちかけた。
「
「――あぁ、はいはい。その話ね。了解です」
唐突な申し出に、しかしアンの対応は、まるでタスクを確認するみたいな事務的で。
それにただ頷いて、了承を返事したのだった。
「じゃあ、明日は、日が出る前に出発しましょう。アルメリア領域に向かうんで」
「えっ――。あ、はい……」
リプカは僅か戸惑ったけれど、静穏の過ぎるアンの表情を窺って、同時に理解した。
どうやらそのことは……すでに彼女の予定に組み込まれていた、確固たる予期であったらしいことを。
「――新王子の四人方から、私が貴方こそを選ぶと。いつ頃から、確かをもって予期していましたか?」
日を跨ぎ、二人で馬車に揺られている実際の今に問うと、アンは寝ぼけ
「最初の最初ですかね。確信ではないですけれど、あの女が私たちにやらせたいことを考えると、まあ、自然な流れでいけば、私になるかなと。競馬でいえば私が本命、対抗がオーレリア様で単穴がサキュラ嬢、ロコ嬢はまあ、レースには入ってなかったでしょう。レース外で一着とかいう予想外な事態もありえましたけど」
「今日、私は何を知るでしょう……?」
「まあ、みんなにとっての当たり前というか、なんというか。――特別なことはなにもしませんよ。ただアルメリア領域でダベって過ごすだけです」
「それで何かを知れるでしょうか?」
「知るでしょうね。話の完全に通じない、
「な、なんだか、変に緊張してきた……!」
「もし隣にいるのがそんなのなら、いま私はこんな呑気に話してませんよ。一目散に逃げ出すか、それが無理なら義務的な会話だけでやり過ごしてます」
言うと、アンは身を倒して、ポスリとリプカの膝上に頭を乗せて就寝の体勢に入った。
「はい、会話はお終い。着いたら起こしてください」
「ぎ、義務を終えて寝たふり的な意味では、ありませんよね……?」
そんな疑心に、アンは頭でボフリとリプカの腹を殴って返答した。
リプカはフッと微笑み、肩にかけていた上着を横になったアンにかけて、一人、色とりどりの花々が静かに揺れる朝露の景色を望みながら、今日という
「ところで、昨晩はどうして眠れなかったのでしょう……?」
「サキュラ嬢関連のことが要因ではありませんよ。ふぁぁあ……あなたのことですよ、あなたの」
「えっ。わ、私……っ!?」
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