そして理知へと至る・1-3

『――正直言えば、あの女は、ここで死なせてやるべきだと思うがな。――面倒だとか、丁度よかったからとか、あるいは、自分の命を使って何らかを企んでいたというのならともかく……奴は、向かい合うべき運命と、ただ勇敢に、向き合っていたように見えた。この世に立つ、ただ一個の存在として――それに背を向けることなく、正面から笑んで、向かい合っているように。運命に矜持を示そうとしていた。私には、そう見えたが……』



 クインの言っていたその意味に、理解が及んだ。


 あの夜に会った彼等と、シュリフたるミスティアとの違い。


 その憧れを、自身の手で求めて道を進んでいるかどうか。


 その一点――。


 何が正解で何が間違いかなんて、結局のところ個人の中にしか答えがない世の中で、彼女は不都合を嘆くでもなく、渇望を泣き叫ぶでもなく、ただ、自身の手で求めて、道を選んだ。


 真っ直ぐに。


(それは紛れもなく尊いことだと思う――)


 ほとんど忌避と同義の情感を向けていた受け入れ難い思想に、確かな姿を視て、その手で触れたその瞬間――。


 シィライトミア領域の大聖堂の、夕暮れ時の全景を望んだ、セピア色の情景の中、あの時のオーレリアの声が、彼女が述べた説教の文句が、今再び、耳に届いた。



『主義を高らかにうたい、その高尚を示そうとする人がいます。それははっきり言って、不毛以外の何ものでもありません。――主義が高尚なのではない、願い故にそれは高尚である、人を尊ぶならば』


『なればこそ』


『主義という難しい内訳ではなく、まずはそれが人の願い故に生まれた意見であることを知り、正しさという正義を求めず、そうやって他方の意見を尊ぶことを知れば、それは、健全な協議として形となるでしょう。私が正しいのではなく、貴方の意見を知ろうとする姿勢――』


『――――互いを知る――』



 互いを知る。

 ――リプカは今ようやっと、人間へ祈った、彼女の説いた理知へと至ったのだと気付いた。



『意思の道、情念と為りて、魂へと至る頃合ころあいには、人は主義を知り、故に人を尊ぶことを知れば、その者理性を会得し、然らば人の輪は初めて獣から脱し、人の理知を獲得するに至る』



 在り方という意思を知った。


 願いという情念を知った。


 矜持という主義を知った。


 憧れという尊びを知った。


 忌避という理性を知った。


 そして見えた、彼女の姿――。


 姿の先に尊びを置いて――彼女の、覚悟の形を知る。




 悲しみをたくさん世に置いていくことになる。



『リプカ様、私たちはそういった存在なのです』



 それでも。



『――けれど、それを踏まえても私は、【病状の爆弾】としてこの先存在していくことを否したい、胸を張った【シュリフ】の姿として消えたいのです』



 そのように願い。



『だから、みなが笑顔で、顔を上げて、前を向いて歩いていく。そんな光景を空に描こうとしたことは、今更存在の位置を弁えず私が初めて抱いた、自分の姿を求めたる希望でした。それを思うことは……清々しくさえあったのです』



 矜持を抱き。



『そうなりたかったわけではないけれど、そのような瞬間に逢いたい、そんなふうに思ったことが何度あっただろう』



 前と見定めた方向を見つめて。



『貴方様は尋ねた、“私が失われるそのこととは”? それは――“【病名】としての私の運命の果てに、誰かが失われる事”です。その現実が訪れた時、私というものは失われるでしょう』



 未来に希望を見て。



『リプカ様、私は分かりません。それでも私がそれを求めようとするこの心は、いったい何なのでしょう?』



 求め続けて、進み続ける。





 そうして歩み始めた、その理由は?





 ――――碧落一洗、リプカの視界が、遮るものの何をもが過ぎ去ったように、どこまでも晴れ晴れと澄み渡った。


 一陣の風が巻き起こり、空を覆う分厚い雲がその一陣に残さず攫われたように。今は身さえ軽く、どこまでも視界が開けている。


 その情景に、シュリフたるミスティアの姿が見えた。


 方角も分からず迷いながら、貴方に近づこうとしていたけれど。

 晴れてみれば、辿り着きたいと願った場所は、そこから一歩も動かずにあった場所で。


 今はもう。


 貴方は隣にあった。


(――分からなかった。どうして、そうまで頑なに……姿を消してしまおうと願うのか。あんなに多くの想いを傍にしながら、辟易でもない、無情でもない、どうして――)


 シュリフのことが分からなくて。


 残されるセラフィのことが私のことのように悲しくて。絆が故のことを主張したくて。


 でも、いつも、どこに話しかけていいのか分からなくて。


 断片的であったいくつもの趣意、シュリフたるミスティアへ寄せる心情、どのように思ってよいのか分からず収まらなかったそのことに――やっと明確な輪郭が生まれた。空回りのように思えていた心細い心情が、凪いでいく。


 散らばるように荒れた思いに収まりがついて、空模様の混濁が過ぎると、彼女へ寄せるその心情は、ただ一つのカタチとして収まっていた。


「私、ミスティア様のことが分かりませんでした」


 リプカは組み合わせた手を見下ろしながら、ぽつぽつと語り出した。


「貴方を想うたくさんの心を傍にしながら、疎むわけでもなくそれに背を向けて、悲痛を向かい合って伝えられたときも、その心情がどんな揺れ方をしているのかも想像つかない。どうしてそんな頑なに――。


 でも、今であれば、貴方様の姿が見える。

 じつと空白の実体が、姿として。


 貴方様の矜持を知った。貴方様の姿勢を知った。貴方様の願いを知って、貴方様の熱を知った。そうして、貴方様の視界を知れた。


 それらを知ると、ぽっかりと見えない範囲が浮き彫りになってくる。きっと、それが貴方様にとっての、最たる理由なのだと思う。――貴方様の、願いは何?」


 リプカの問い掛けに、シュリフは俯いて、微笑んだ。


 表情を隠すような微笑みだった。――リプカは彼女の微笑みにも、いくつかの情を見出せるまでに近づいたことに気付いた。


みなが笑顔で、顔を上げて、前を向いて歩いていく。それを目指した理由の根本。矜持、主義……その根底たるは、いったい何であるのでしょうか?」



『――願い』


『主張をもっと単純にした見方、主張の根本――』


『願い』



「――――随分と無遠慮に……踏み込んだ応答ですね、リプカ様。貴方様らしくなく」

「――アン様が聞いたら、きっと、激怒されるお言葉です、ミスティア様。お互い様ということで、どうか、ご寛大を」

「…………」


「己の人間味に素直な情動を表し、初めて赤裸々を私へ見せてくれた貴方様に、夜明けの光のような、どこまでも透明な性分を見た。そんな、現実を疑うくらい澄んだ情緒に見つけた、一つの混濁があった。足掻いて求める種々雑多な思い――それはやがて失われることを恐れての決意だった。


 自身についての様々を、嬉しくも私へ明かしてくださった貴方様が、頑なに語らなかったことがある。思えば私は、シュリフたるミスティア様が、表のミスティア様にどのような情を抱いているのか、そのことについてはまったく存じません。なぜそこに大事を置かなかったのか――。


 ミスティア様、貴方様の願いは、表のミスティア様に関わってのこと――――違いますか?」


「――どうしてそう考えるのでしょうか?」


「貴方様はセラ様の『心細さ』を観測し抽出する形で、人間性を得たといいます。それが貴方様の在り方だと受け止めて考えれば――そんな貴方様が、表のミスティア様へ、特別な想いを寄せないわけがないと分かるから。


 貴方様の矜持が失われることは、【病名】としての私の運命の果てに、誰かが失われる事であると明かされた。貴方様がこんなにも生存の道を拒むのは、【妖精的基盤症状】の浸食以上に、なにかしらの危惧が視えているからでは……?」


「…………」


「空に希望を描く原動力には必ず、希望の裏側、対義の同義たる『絶望』という要素が関わってくる。“絶望”、そこから形作られた、反転した指針を胸に、その針の先を指して人は“希望”と呼ぶのです。穿った見方ですが……その道理の事は、私のよく知ることです。


 貴方様の事情において、一番想像し易いのが、表のミスティア様についてのことでした。――どうでしょうか?」


 リプカが尋ねると――シュリフたるミスティアは、眠ったようにしばし沈黙した――。


 そうして黙った、そののちに。


 言葉を投げかけた。



「チェス・ゲームを知っていますか?」



「え? ――え、ええ。まだ一度も勝てたことはありませんが、ルールは存じております」

「そうですか。チェスで、例えるならば……。もう駒をどう動かそうと、どうにもならない状態に追い込まれた、私は今、そんな気分と直面しています」


 言って。


 ――シュリフは緊張を諸々解いたような、脱力の微笑み顔を浮かべて、僅か姿勢を背側へ倒して告げたのだった。


「負けました」

「…………??? え、えっと……?」

「チェックメイトにはまだ早いですが、顔を覆うには、残念ながら、よい頃合いです」


 シュリフは微笑みながら、一つ息をついて。


「――次の場所へ参りましょうか、リプカ様」


 戸惑うリプカへ、話の区切りを切り出した。


 戸惑いながらも頷いて、シュリフの微笑みを受け取ると、それからしばし、二人なんとなし、今歌われたスローメロディな歌唱に聴き入った。


 紅茶を嗜みながら、アイドルの一曲が終わりをつげたそのタイミングを見て。

 それから二人、また手を取り合って。共に立ち上がると、次の場所へと歩み出した。


「ミスティア様、負けた、というのは……?」

「仕掛けたゲームに、拮抗が付いたということです。未だ生き意地汚く興じるつもりではあるけれど、大方のところは。きっと、貴方は手にして、私は何も得られずに帰るでしょう。――リプカ様」


 ふと、辺りに人気が無くなったタイミングで。

 シュリフは瞳を開き、その青色に不思議な熱を湛えて、リプカを見上げた。


「本当に、見違えるように成長なされましたね」


 その微笑みは、光の加減がそう見せたのか、嬉しそうに見えて。


 ――仕掛けたゲーム。


 その言葉に内心、喉元辺りで心臓をドックンドックン脈打たせていたリプカは、彼女の微笑みを見てどうしてか軽くなった心情の緩急変化に息をついて。


 自分では見えない姿見に「そうなのかなぁ」と思い馳せながら、のびやかな雲だけがたなびく、晴れた大空をいっぱいに見上げたのだった。




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