口付け――人外証明・1-2
「……………………」
――――――――新王子たちとの四日と、お終いの七日についての予期を告げられた、あの日。
あのとき、口付けするのを思い留まって……本当によかった。
そんなことが、最初に浮かんだ、はっきりとした考えであった。
身を起こすと、リプカは冷や汗を浮かべながら、言い難い、とても、とてもとても難しい表情で佇んだ。
(あのとき、口付けしていたら……)
(私は間違いなく、崩れ落ちていた――……)
心構えのための時間、僅かでもそれがあったからこうしていられると、それでも大部分が真っ白になった思考の中、ただ立つことに懸命していた。
口付け。
特別な行為であり、好意。
リプカは、始めて口付けを貰ったその日のことを、肌を撫ぜる風、陽光の温度、景色の鮮やかや香りに至るまで、はっきりと覚えていた。
ある日のこと。まだ仲良くなり始めだったフランシスが、なにかの拍子みたいに、しかし感情を込めて――口付けしてくれたのだ。
覚えている。『生きていてよい』と言われたような、あの感慨、温もりに似た情動。
パッと咲くように、あの情感が己の内に広がった途端に――瞳が景色を色鮮やかに映し出した。
生きていて良い。
どうしてか、そう言われたような気がしたことが、――到底信じられなかった。
そして、涙した。
体裁もなく、表情をぐちゃぐちゃにして――驚くフランシスの前で、リプカは涙をボロボロと流し、「う、お、おぉ……」と声を上げながら号泣していた。
涙は止まらず……「しょうがないお姉さま」と労わってくれるフランシスの前で、どれだけの時間か分からないほど、涙を流し続けた。――あの日の事は忘れない。
神が人というモノに許した、特別な温度を伝える行為。
そのはずだった。――――なのに。
シュリフと口付けして得たものは、何も無かった。
そこに温度も無い。
感情も無い。
湧き上がる感慨というもの全てが、何も無い。
壁に口付けしたほうが、まだしも何か多くを感じるくらいだった。
そんな馬鹿な――。けれどそれは現実。
それは確かに。
シュリフが人間でないことの、何よりの証明方法だった。
「……………………」
立ち竦むほか無い。
人間ではない。それを全身全霊の理解で受け止めて尚、平静を保てる精神は、それこそ人間のものではなかった。
人のカタチをした、ナニカ。
……認めざるを得なかった。どうしてもそれを認めたくないのなら、目を逸らす他ない。
酷な話に思えるけれど、事実、実感として――。
――とりあえず一旦、シュリフの隣に腰を降ろそうと思ったのだけれど、よろと足に力が入らず、後退してしまった。初めての感覚、どうしたことか、体に力が入らない。
だが――僅かでも心構えを据えた時間がここで活きた。
フーっ、と、深く息を吐き出して。
万力を込めた手を、まるで鉄を折り曲げるみたいに、ギギと音が鳴り響きそうな様相で握り締めて、その拳を胸に当てると、もう一度深呼吸して――。
そうすると、今更に、冷や汗で冷えた体の状態に気付いた。
一応の平静を取り戻すと、今まで気付かず狭まっていた視界が開け、正常な景色が戻ってきた。
とりあえずの平静。
そして、今度こそ、またシュリフの隣に腰を降ろした。
「――フフ」
リプカのその様子を見つめて、シュリフは何やら含みありげな微笑みを浮かべた。
「……どうなさいましたか?」
「こんなことは初めてであると……、そのことを考えていました」
「…………?」
「リプカ様、私のほうからも、一つ、貴方様に聞き尋ねたいことが」
「なんでしょう?」
「貴方様は、セラフィを助けるために、アリアメル連合まで飛んできた、そのはずです。私が消えることを厭うのも、極論、それが理由であるでしょう。――けれど、それにしては、貴方様はセラフィへの心配のため、貴方様自身がセラフィの隣に在ろうとはしませんでした。まずもって寄り添う、貴方様の性分を考えても、私にはそれが、“自然な考えの向き”であるように思えたのですが……それは
「――貴方様がいたから」
リプカの回答は、即答だった。
ありのままの口調で。
「セラ様の傍には、すでに、セラ様のほうも大切だと想っている、掛け替えのない存在があったから。だから、それ以上は……力の及ばない私がいても仕方がないと考えて、根本の問題へ向かい合える道を選んだ。シィライトミア邸での、シィライトミアの姉妹の様子を見て、私はそれを知った。お互いに心から大切だと想っている人が隣にいれば、人は、まだ立てる、立っていられるから。例えそこが極寒の状況下であろうとも」
私はそれを知っています。
それもまた、ありのままの口調で明かされた。
「だから……一刻も早く状況解決の望める道を選んだ。貴方様にも生きてほしくて。――あの……このような意味のことで、よろしかったでしょうか……?」
「ええ。――それが知りたかった」
シュリフはゆっくり頷きながら、「ありがとう」の礼を言った。
その横顔。
浮かべた微笑みの表情は、なんだか――。
「あの、ミスティア様……?」
「…………? なんでしょう?」
愛想よく微笑みかけられて――困ったような、どうにも気の落ち着かない焦燥に駆られる。
口ごもった先の内容を思うと、リプカは思わず、視線を反らしてしまった。
「なんだか、あの……どこか――楽し気な、ご様子でしたので――。気になって……」
リプカはためらいがちに、そのことを指摘した。
シュリフの横顔。それはまるで、未来に愉しみを見出し、ワクワクしているような、そんな表情だった。
状況にそぐわないその妙を指摘されると、シュリフは瞳を瞑り微笑み、突然、立ち上がった。
「あ……」
何らかに触れるところがあり、今日はここで
「正直、愉しみを見出している自分がいます。人生の最後に訪れた対決、ウォーターダウンのようなスピードで進む崩壊、今まで比肩するもの無かったはずの私の才が、気もそぞろな巨大な手に弄ばれるように蹂躙されている。マゾヒズム的な考えですが、その蹂躙はゾクゾクと神経を逆撫で、小気味良い。なんだか笑い出したい気分なんです」
踊るように、またクルリと回り背を見せると、シュリフは空を見上げた。
「今まさに、私は人生の可笑しさの只中にある。アンヴァーテイラの言うように、思い描く順当など何一つ許されない、神の気まぐれが描く絵の中に。そんな場合でないことは分かっているけれど――私はそこに愉しみを見出している。本当は、今すぐ、笑い出したい気分なんです……」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます