夜明け方のその日・1-2
「ともあれ、話題に程良い話のタネも手に入ったことであるし、なにより、楽しかったの。なっ?」
「は、はい――! 今日は、本当に楽しかった……」
リプカは柔らかな笑顔を、水面に砕ける光のように淡く、輝かせた。
クインは「うんうん」と頷き、そして、黒点の輝き一色で微笑んだ。
「そうかそうか、んじゃ、この後のシゴきがきつくても、気分転換も済んだことであるし、精神無事に耐えられる、なっ」
「は――はい……。お、お手柔らかに……」
「冗談だろう? さあ、宿を取って、そこでまた、勉学の時間だ。精神の限界まで、キリキリと絞ってやる」
「ひええ……」
「と、その前に――」
フラフラと立ったビビを突き離し、クインは背を向けて、リプカを見やった。
「まだ日もあるし、もうしばらく、遊びの時間とするか。さて、軽くつまめるものでも食べ歩いてみるか?」
それは単なる「飴」である可能性もあるが、クインの見せた優しさに、アズもクララも表情を明るくしてリプカを仰ぎ見た。
「――はい! ぜひ皆さまで遊びましょう!」
リプカも表情を明るくして、手を打ち言ったのだが。
続けて――。
「あ、でも、本日は早めに切り上げて、より多く、勉学に時間を置きたいと思っております。息抜きの話が出たところで雰囲気を濁すようですが……お願いできますか?」
そんな殊勝なことを口にした。
皆意外そうな顔をして、クインはついと片眉を上げた。
「なんだ、やる気に満ちたことを言うではないか。なにか、成長を実感するような大事でもあったか?」
「ええ、まあ――」
「フン、では、そちらも楽しみにしていろ。ビシバシどころかバキバキに鍛えてやる」
「は、はい。お手柔らかに……」
「どうかな?」とはぐらかすようなことを言ったのを最後に、クインはそれ以上深く突っ込むことはせず、話を切り上げてくれた。
その気遣いに、内心、ほっと息が漏れた。あまり話したいことではなかったから。
だが――クインの言う通り、今日という日はリプカにとっての、まさしく一大事であった。
その日たる――大変なことが起こっていた。
(嗚呼……)
(今日は私の……常識が覆った日――)
取り繕ってはいたが、内心、穏やかではなかった。
それは不穏に心を乱されることではなく、もっと別の理由で――。
(自身の望んだことを、自身が望んだままに、成し得た日)
その実感を思い――鼓動の度に大きくなる感慨が、全身を駆け廻るのを感じながら。
まるで武者震いのように、握り締めた手をどうしようもなくふるふると震わせながら、リプカは今まで感じたこともない高揚に、内心、上気していた。
(私の永い努力が……本当に永い、永い間の奮迅が……初めて確かに結実した、その日――……)
永かった――。その意味を、噛み締めて。
辿ってきた今これまでの一路を、目を瞑り、思う――。
何もかもが上手くいかなかった。
自身のこなす、何もかもが。
少しでも努力したい。けれど結果はいつだって伴わず、妹と同じステージにのぼり、隣に立ちたいと願う最たる思いも、いつしか、虚しさの伴うものへと変わっていった――。
婚約という、世間一般で定義されるところの通過儀礼を通して、人との関わりをもって変わろうと一大決心を抱いた試みも、結局、失敗してしまって。
本当は、水のように重くて闇のように暗い憂鬱に沈んでいた。
あれは、紛れもなく本気で望んだことだった。結果は――惨憺たる有り様だった。
何をやっても。
「どうせ……」――いつしか意識の中で響き始めた言葉。その度に、気を確かにと、頭を振っていた。リプカの日々は、そんな憂鬱が伴い続ける、湿った日陰だった。
――それが、本日の成果は、いったいどういったことであろうか――?
なにかが、変わり始めている。
血液を騒がせる予感を感じていた。
「私はセラ様の助けになることができる」
ふと、それを言葉にして呟いてみた。
言葉には実感が伴っていた。委縮するような陰気はどこにもない。
いつも身に絡んでいた陰鬱が消えて無くなっていることに気付く。代わりにあるのは、ほんの僅かだけ滲んだ視界を誤魔化すように見上げた先に望んだ、高い高い蒼天の、どこまでも青と広がる晴々しさ。
「どーした? ダンゴムシ」
リプカは王子等を見つめると、晴れた微笑みを浮かべて、言葉を紡いで送った。
「貴方たちは……私がずっとずっと望み続けていた、夜明け方の、その日のような――まるで、そんな存在です。――眩しいという意味でも」
「――フン、なーにを言っとるか、こやつは」
「フフフ、リプカちゃん、光栄だよ」
「私も力になれてるといいんだがなぁ」
「貴方の力になりたくて、ここへ来た。それを思えば、この上ないお言葉です」
「よーし、時間一杯まで全力で遊ぼーっ」
拳を天に突き上げ号令したアズの快活な声に、皆、肩の力が抜けた表情でゆるい返事を返して。
ぶらりと街を回ってみたり、のんびりとお茶の時間を過ごしたり、お国の個性が見える売り物にテンションを上げてショッピングを楽しんだり、アズの挑戦する水上スキーに歓声を上げたり、時にギャースカといがみ合って騒いだりしながら――日が紅く輝くまでの時間たっぷりと、アリアメル連合シィライトミア領域の様々を皆で遊び尽くした。
そして、これが最後のあそびの時間だった。
この先にあそびは存在せず、また、天が味方するような霹靂、あるいは天に裏切られるような偶発すらも望めなくなる。
物語というものが“定められたもの”という意味合いを持つのだとすれば、このときから僅かの後に、用意された純白の本が開かれ、運命を浸したインクで綴られた、真新しい物語が、またそこから紡がれ始めるのだ。
リプカの――。
あるいは、人を名乗らぬ彼女の行く末を書き綴った、物語が――――。
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