第三十三話:よかった
最上部に、巨大な丸を書く。
これが、広大な国土を誇るパレミアヴァルカ連合。
その一番左下に、顎の長い人の横顔のような、小さな角ばった形を、顎が外向きになるようにぶら下げる。――これがアルファミーナ連合。国土面積でいえばイグニュス連合に次いで小さい。上手く描けていたなら、パレミアヴァルカ連合の丸が巨大なアフロに見えるはずだ。
アルファミーナ連合の右、パレミアヴァルカ連合のちょうど真ん中あたりからぶら下がる国土がウィザ連合。右向きの、鼻の長い人のシルエットを唇付きで描く。大きさはアルファミーナ連合のおよそ三.五倍。ここまで描いたとき、パレミアヴァルカ連合とアルファミーナ連合がリーゼントのように見えたら、それは正しい形である。
ウィザ連合の額から鼻下にかけて右に伸びるのが、エレアニカ連合。パレミアヴァルカ連合の右下から伸びる、あえて言うなら壺のような、特に特徴の無い形の国土。
その右には、弓なりの形を持ったアリアメル連合。パレミアヴァルカ連合の右脇と隣接する、弓の背に海を頂く水の国。
アリアメル連合の弓なり、その右上からひょろりと右方向へ伸びるは、【
そして、ウィザ連合の鼻下から下唇、エレアニカ連合の壺の底、アリアメル連合の細まった弓下の部分と隣接するのが――元・オルエヴィア連合。底に広大な入江、右側にかけては大海原を望む、かつて帝都を名乗った――今のなれはて。
戦争に参加した主要六カ国はそのような模様を描いている。
あとは、ほぼ内陸地であるウィザ連合を囲む形で、大陸は下へと伸びてゆく。――これが、海を渡った明日向こうの国々からは【ルーメリア大陸】と呼ばれている、特色に富んだ多くの国土を抱く大陸の形である。
アリアメル連合はウィザからエレアニカを挟んで距離があるため、セラは明日の早朝にエルゴール家を発つようだ。
アズは今日の夕方にパレミアヴァルカ連合から迎えが来るらしい。
そしてフランシスはアルファミーナ連合に出向くようで――出発は、今すぐになるそうだ。
「んで、お姉さま。クイン・オルエヴィア・ディストウォールは本当にオルエヴィアへ帰さなくていいの? 今であれば全然修正もきくけれど」
「ええ、彼女はこの屋敷に留めておいてほしい」
玄関ホールへ続く廊下を姉妹並んで歩きながら、リプカは昨晩の、そして今朝方のクインの様子を思い出しながら、フランシスの確認に頷きを返した。
「精神的に、とても参っている様子だったけれど……一晩しっかり眠った後は、調子を取り戻していたように思うの。いまは、このお屋敷でもう少し休養を取るべきであるように思う」
「調子を取り戻した、ねぇ」
語調の荒れた声を吐き出し、フランシスは額に青筋を浮き立たせた。
「あんのボケ、急にふてぶてしくなりやがって、クソが。マージで覚えておきなさいよ」
「こらこら……」
リプカは苦笑を浮かべて、髪をピリリと四方に散らすフランシスを宥めた。
「いま彼女をお国に帰したら、きっと逃げ場所が無くなってしまうから。だから、今は、ここにいてほしいの」
「まあ、お姉さまがそう決めたのならそれでいいけどね。――ちなみに、彼女に肩入れする理由は聞いても?」
「――彼女は純粋だった」
リプカの返答は端的だった。
しかし。
瞳に意思の光を灯らせ、真っ直ぐに前を見つめた姿勢で口にされたその短い言葉には、揺れぬ決断の色が窺えた――。
それは、お互いまだ見知ったばかりの王子たちがもし知れば、驚く姿だろう。
「理由はそれだけだけれど、私にとってそれは、力になってあげたいと思うに十分な事情だった」
「あん? 純粋?」
「そう。――怒り、恨み、憎しみ……それらをぶれぬ一点に向けて、彼女はただ一念の、純粋な思いで報復を画策していた」
リプカはその暗部の情動を、まるでかけがえのないものであるかのように語った。
フランシスは口を噤み、輪郭の判然を見せて語る姉をじっと窺った。
「その一念がどんな思いを表すのか、それは私には分からないけれど……、どす黒い意思に塗れたそれは、でも同時に、偽りようもない純粋を感じる一色だったように、私には思えた」
「…………」
「私はそこに、彼女の
「だから、力になりたいと?」
「半分はそうね。もう半分は、どんな種であれ、思いの純粋を抱けることは良いことだから。それをもって、また前を向ける。再び歩き出せる。――けれど現実は往々にして、その純粋を濁す苦難を与えるものだから……だから今は、このお屋敷で彼女を匿ってほしいの」
「――その純粋が、あらぬ方向へ向かわぬように?」
「そういうこと」
物分かりよく理解を示したフランシスに、リプカは微笑んだ。
フランシスは天井を見上げながら一つ息をつき、顎に手をやった。
「なるほどねぇ。もう半分と口では言ってたけど、実際はそっちが所感の全てなのね」
「ま、まあ……」
「――言われてみれば、その危惧は抱いて然るべきものだったかもしれない。妙なことになったら困るのは、こちら側も同じだし。――クインの様子見は、全てにおいて利に働く。確かに、そうするべきだったわね……。――さっすがお姉さま、そんなところに気付くとは。いつも、誰も気付かないところに気付くもんなぁ」
「そ、そんな……大仰に褒められるようなことじゃないわ」
「謙遜するわねぇ。――分かったわ、クインの処遇についてはそのように」
「ありがとう、フランシス」
リプカは礼を言ってから、少しの間を置いてフランシスを窺った。
場所はもう玄関ホールを抜けた中庭である。話せる時間は、あと幾ばかりもなかった。
リプカは迷いを捨てて、フランシスに問いかけた。
「フランシス……あのね、一つ意見を窺いたいのだけど」
「んー、なあに?」
「クイン様が画策した、私を使って戦争を起こすという考え――それは現実味のある提唱であると思う?」
「…………」
「もちろん、私はそれに関しては力になれないのだけれど……フランシスから見てどう思うのか、それを聞きたいの」
「やぶれかぶれのヤケクソではないのか、気になったってこと?」
「そう……。それを知っておきたくて」
「お姉さまは気ぃ遣いねぇ」
フランシスはため息をつくと、僅かの沈黙を挟んだ。
そして――。
「可能だと思う」
――その断言に、リプカは驚きを露わにした。
あの、フランシス・エルゴールの断言である。一般人が語る、ただの憶測とはわけが違った。
ほとんど真実の是である。
「そ、そう……」
「クイン・オルエヴィア・ディストウォール」
フランシスは静かに、彼女の名を口にした。
「――あいつは先の戦争において、オルエヴィア連合軍で唯一、一度も負けなかった指揮官だった。敗戦後の、結末を除いて」
「一度も、負けなかった――」
「攻防共に秀逸であり、奴の率いるディストウォール軍は最大危惧たる破竹の勢力を見せ――そして最終局面前には、私自らが動き、一個群勢を率いて当たらなければならないほどの影響力を示した」
「え!?」
フランシスが率いる群勢と――。
リプカは呟き、その雑草の一つも残らぬ蹂躙を思い、息を飲んだ。
「正面衝突したってこと……?」
「そう。……いや、正しくは、正面衝突を避けられた」
ふんと鼻息を吐き、フランシスは彼女にしては珍しい、称え認めるような敬意の表情を表した。
「敗走には追いやった。だが奴は、そこでも実質的な勝利を収めた。兵の損失ゼロで、あいつは敗走せしめた……。――五カ国の連合は結局、あいつ一人にだけは最後まで勝てなかった。その代わり、味方側から敗北を擦り付けられたわけだけれど」
「…………」
リプカは様々な感情を処理しきれないでいた。
フランシス・エルゴールが勝利を収めることができなかった相手。――信じ難かった。彼女と勝利は同義語であると疑いなく所感していたリプカにとって、その衝撃は計り知れない。
そして、その尋常ならざる尽力の末に、彼女は――この世の不条理を煮詰めた、絶望の辛苦を舐めた。
その苦悩を思い、リプカは思わず表情を辛く歪めた。
「幾度の敗走を喫するも、奴らは決して“軍勢”を失わず、最後まで健在であった。――まあ、オルエヴィア連合の奪還も、あいつなら可能かもね。ムカつくが、それは事実かも」
「…………」
やぶれかぶれではなかった。
それを知り、リプカは複雑な面持ちを浮かべた。
沈黙の後、息をつくと、その面持ちの内実をフランシスに吐露した――。
「よかった」
リプカは眉を下げた微笑みの表情で、そう呟いていた。
フランシスは怪訝な顔でリプカを見つめた。
「よかった?」
「うん。――彼女は、きちんと前を見つめることができていたのね。なら、大丈夫。また歩き出せる。置かれた境遇は本当に辛いものだけれど……きっと、ここではないどこかへ、彼女は行ける。私が力になれることがないのは残念だけれど……でもきっと大丈夫。――だから、よかった」
「…………。たとえ、それが復讐であっても?」
「言った通り、私は彼女の思いに純粋を見た。どんな種であれ、思いの純粋を抱けることは良いことよ。それをもって、また前を向けるから。再び歩き出せる。それは本当に尊いことだと思うわ」
「――そ」
フランシスは短く返答すると――正門の前に待機した馬車の前でリプカを振り返り、微笑みを浮かべた。
「んじゃ、私の無事も祈っといて頂戴」
「もちろんよ。……いってらっしゃい」
「またすぐ戻ってくるから」
フランシスの頬に口付けし、彼女を抱き留めると――リプカは後ろへ下がった。
どこからともなく現れた護衛の二人と共に、馬車へ乗車するため歩き出すフランシス。
リプカはぽつねんとそこに佇みながら、寂しげの奥に葛藤を
「――フランシス!」
突然、意を決した響きをもった、大きな声を上げた。
振り向いたフランシスに、リプカは必死の表情で叫び上げた。
「なにか私が力になれることがあれば、必ず呼んで……! きっとよ……!」
その叫びに――。
フランシスは再び微笑み、ブイとピースサインを、にこやかな表情と共にリプカへ向けた。
――馬車が走り去っていく。リプカは小走りで馬車を追い掛けながら、手を振って声を上げた。
「気をつけてー!」
「あいあーい。お姉さまも達者でねー」
後ろ手に手を振る、遠ざかるフランシスの姿を見つめながら――リプカは別れ難い親愛と、いまこの現実への焦燥を抱いていた。
焦燥。
それが何に由来するものなのか、もうとっくに自覚していた。
せめて――せめていまは、物事が良い方向へ向くように、自分にできることを尽力しよう。
リプカはフランシスを見送った後に残った決意を胸に、たった一日足らずの僅か前より少しだけ良くなった姿勢で、屋敷へと引き返した。
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