リプカ・エルゴール・1-5

「…………」


 日記を読み進めるうち、どうしようもなく不安は膨れ上がり、クララは気付かぬうちに奥歯を噛み締めていた。


 表情を渋め、赤色の日誌を掴む手に力がこもる。いつリプカが壊れてしまうか気が気でなかった。


 ――しかしクララの不安をよそに、リプカはそれからも尋常ならざる精神力を見せ、日々をこなしていた。


 両親の酷い扱いは収まりを見せるどころか、次第に更なる残酷を見せた。


 罵倒は人間性の否定にまで及び始めた。

 エルゴール家の歴史書にも記されていた通り、やがて両親はリプカを馬鹿にすることを話のタネにし始めた。他人の前でさえ彼女の尊厳を傷つけ、奪い始める。


 それなのにリプカは折れず、健気に努力を積み重ね続けていた。


(――どうして)

(どうして、リプカ様はこんなにも気丈で在り続けられたのでしょう……?)



 ――××の月、××日。


 今日、フランシスが初めて読み書きを習ったのですが――フランシスはすごいです!

 教えられて一度で――どころではなく、先生が教える前から、全てにおいての完璧を披露していました。


 フランシスはすごい!

 あの子は特別なんだと、私は知っていました。


 自慢の妹です。

 あの子は将来、何か特別なのことを成すやもしれません。


 私は……今日も沢山の失敗をしてしまいました……。


 私も頑張らねばと思いました。

 気合いが入った思いです。



 ――××の月、××日。


 また失敗を重ね、フランシスに、馬鹿にされてしまいました……。


 なかなかフランシスのようにはいきません。


 私は、あの子の隣に立てる姉でありたいです。

 そのためには、今よりもっと頑張らねば。再び気力が満ちた思いです。



 年数が飛んでも、少なくとも見たところでは、リプカは正気を保ち続けていた。


 しかし、クララはリプカのその精神力に、失礼ではあるが――不気味を感じ始めていた。

 人が持てる精神ではないように思えて。


 それでも前向きなリプカの心情がまるで分からず、クララは胸の内に得体の知れない不安が広がっていくのを感じていた。


 ――だがしかし。

 やがて、ついに――日記の記述に変化が表れ始めた。



 始まりは、少しの文字の乱れだった。



 際立って気になる程度ではない、少し荒れた筆跡が目立ち始めた。内容は特に変わらず、だから不穏を覚えるほどの予兆には思えなかった。


 しかしそこから、月日が進むにつれ――筆記の乱れは、看破できぬ程度のそれではなくなり始めて。やがてそれは、精神の異常を否応なく察する、闇の発露のような様相を表すに至った。


 ――――真っ黒だった。


 日記に記された筆跡は、その一文字が何重にも見えるほど濃く、殴り書きしたように荒れていた。


 文字に文字が重なっている。それを気にする様子もなく、先を書き進めている。


 紙に染みや、文字の滲みが見受けられ始める。――涙を落した跡だった。


 さしもの少女も、数年の時の蓄積に耐えられず、決定的に心が瓦解し初めたのだ。


 そして。


 あるところで、日録は途切れていた。


(――――……)


 クララは口を覆い、途切れたその先の空白を、瞳を揺らしながら見つめた。


(そんな――そんな……)

(…………じゃあ、今現在のリプカ様は……どうして――)

(どうして、あんな健全に――?)


 抱えられぬ闇を患っているのか。

 健全に見えるだけで、内面の、彼女の実際は、もしかしたら――。


 戦慄を覚え、唾を飲み下す。


 何も考えられぬまま――震えの止まらぬ手で、先はないであろう次のページを捲った。



 ――しかし。

 予想に反して、日録には続きがあった。



(…………え?)


 目を疑った。続きの日録には、文字の乱れや、あるその他の異常も見られず、まるで突然正気に戻ったような様子を見せていた。


 日数の飛んだ日付。クララは混乱極める空白思考のまま、その記録を追い始めた。





 ――××の月、××日。


 今日は神様が祝福してくれたような良いことがありました。


 今日、フランシスと仲良くなれました。


 フランシスは突然、ブスっとした表情で、裏庭が望める渡り廊下に腰掛ける私の隣に座ると、そのまましばらく黙っていました。


 私が「どうしたの?」と聞いても、フランシスは黙ったままです。


 そして、やがてフランシスは、ぞんざいな仕草で私に拳を突き出しました。


 殴られるのかな? などと思ってしまい身を引いてしまいましたが、フランシスは無言で拳を突き出し続けていました。


 なにかを差し出していることに気付き、おそるおそる両手を拳の下に持っていくと――拳が開かれたそこから、なにかが私の手に落ちてきました。


 私の誕生石をあしらった、とても綺麗なペンダントでした。


 フランシスを窺うと、彼女は私の方を見ずに、彼女らしくないボソボソとした声で言いました。


「それ……誕生日プレゼント。だいぶ時期が違うけれど……遅くなった贈り物よ」


 ――私は目を見開き、手の中の、輝くペンダントを見つめました。


 正直、そのときは現実が信じられなかったです。


 信じられないくらいの嬉しさを感じました。


「それから、お姉様、あのさ……」


 フランシスはまた籠りがちな声でいって、私のほうを真っ直ぐに向きました。


「――いままでごめんなさい。くだらない視線を向けていたように思う。もし許してくれるなら……私たち、これから、その……いまからでも、仲直りをしましょう?」


 フランシスは苦しそうに言いましたが――私はそれに涙を流しながら、コクコクと頷きました。


 当たり前よ、貴方からは、何も酷いことなんかされてない、と伝えると……そんな必要もないのに、殊更苦しそうな表情を浮かべてしまったので……私は彼女の手を取って、精一杯に微笑みました。


 ――やがてフランシスも、私に、微笑みを浮かべてくれました。



 私は、いつかこんな日が必ずくることを知っていました。


 私は、ずっと幸せでした。愛する妹が、愛する存在が、この世界に在ること以上に望むものはなかったからです。


 フランシスはずっと、私に愛を教えてくれました。


 あの子と初めて対面したそのとき、空が晴れどこまでも見通せる光を目にした心地を覚えて、泣きそうな気持ちになりながら、この子を守りたいと温かに思えたあのときから、ずっと――。


 そして。


 あの子を想うこと――今日それ以上の幸せがあったこの日を、私はこの先決して忘れないでしょう。 


 あの子がいたから、私は人間でいられた。


 私をずっと支え続けてくれたあの子と笑い合える日を迎えられて、よかった――。





 ――クララはそれを読み終えると、全身を脱力し、熱の籠った吐息を一つ漏らした。


 日記には、所々に涙の跡である滲みが浮いていた。

 クララの瞳にも、涙が浮いてくる。


 クララは大きな勘違いをしていた。リプカが内に秘め抱えているものは、渦巻いた闇ではなかった。


 結局、クインの予想が正鵠を射ていた。リプカがこれだけの苦難を、決定的に心を折ることなく乗り越えた理由は、ひとえに彼女の潜在的な強さが所以であったこと。


 リプカがその内に抱えていたものは――ひたすらに温かな、光だった。



 誰かを想う。幸せを思う。

 それを、何よりも大切に、尊く思う心。

 あれだけの過酷に遭っても、失われずにあった光。



 ――あのとき、刺客に襲われたフランシスを守るために見せた、全身全霊。

 姉妹が寄り添う、この世のものとは思えない、あの美しい光景。


 そして、彼女に胸を打たれた理由。


 リプカ・エルゴール。

 クララは再び、彼女の姿をその瞳に収めたような気持ちになった。



『――――お姉さまを……幸せにしてあげて』



 再び、フランシスの声が頭の内で響く。


 ――リプカの姿を見極めることで、フランシスがどれだけの想いをその言葉に託したのか、いま、殊更の理解が及んだ。

 あの言葉の意味を、その形を――いまはより正確に、捉えることができる。


「…………必ず」


 日記のページに新たな滲みを落としながら――。

 震える手で祈りの形を組み、それを額に当てながら。


「必ず――――必ず!」


 クララは再び、彼女の思いに、確かな誓いを返した。





 心を失わぬ人間がいる。

 それはささやかな幸せに感謝を抱くことができ、この世の幸いを見失わぬ人間である。


 リプカ・エルゴールはそれを体現していた。


 

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