8-2 精霊王

 舟を裏返し乗り込むと、寒さが二人を襲う。濡れた肌が焼けるようにヒリヒリとする。濡れた衣服をいつまでも纏っているのは危険だが、それよりも陸地に辿りつく方が先だ。

 オールはセラが漕ぎ、トニヤは震えながら掌をこすり合わせた。


 氷の陸地が近づくと人が見えた。二十名ほどいるだろうか。死地に暮らす民族、彼らがヴーアなのか。


 セラはかじかむ手を懸命に動かした。小舟を湖岸に接岸させて氷上に降り立つと、一人の老人が進み出た。


「貴様同族であるな」


 寒さで焼け付いたような皺枯れた声。威嚇と糾弾するような厳しさを含んでいる。


「あんたたちがヴーアか」


 それには答えず老人が目を伏せる。少なくとも歓迎はされていないのだろう。


「辿りついてしまったものは仕方がない。ついて参れ」


 人々は物々しい雰囲気でセラとトニヤを取り囲んだ。




 ヴーアの住居は氷の中に在った。

 岩の洞窟から入り、暫くするとそれが氷河の下に繋がった。

 高い氷の壁は磨かれたガラスのように澄んで、宝石のように煌びやか。ぞろぞろと歩く行列が映る。トニヤがそれを好奇心のままに感嘆の声を上げながら眺めていた。


 とても面白い場所であるとは思ったけれど今は楽しさに心が働かない。

 セラは氷の階段を降りながら衣服の下から覗く人々の首や手をじっと見つめた。自分と同じ文様が刻まれていた。


 居住区に入ると衣服を提供され、着替えた。温かい綿に心が落ち着く。

 トニヤは「すべすべしていて気持ちいいね」などと感動していたが、セラは自分のことで頭がいっぱいだった。

 知るべきことが待っている、早くオレを教えろ。


 衣服を整えると隣の広間で待つ彼らの元へと向かった。


「さっき、オーロラを下ろしたな。我らの水魚を退けるほどの力。並大抵の者でないことは分かった。あれはどちらの仕業だ」

「オレだ」


「なぜこの地を訪れた。ここはヴーアの民族以外立ち入ることを許されぬ聖域だ」

「我らの水魚と言ったな。あの魚はお前たちが作り出したものか」


「左様。あれは水を魚に象り、這わせた魔物だ。我々もお前同様力を使う」

「力の正体は何だ。精霊と人間の混血児になぜあのような力が宿る」


「聞いているのは我々だ。なぜ、この地を訪れた!」


 老人の怒鳴り声の後、沈黙が落ちる。その沈黙を破るようにトニヤが声を上げた。


「セ、兄には皆さんと同じ力があります。その秘密を皆さんにお聞きしたくてここまでやって来たんです。ケンカするつもりは無かったんです」


 そう言ってセラの袖を捲った。

 大きく成長した文様は手首にまで達していた。

 文様を見た人々の間にざわめきが広がる。老人が震える手を伸ばし、動揺した様子で頭を抱えた。


「おお、なんということ。その文様は……もっと、もっとよく見せてくださらんか」


 偉大な物に触れてはならぬようなそぶりで手を止める。セラは少し戸惑ったが黙って服を脱いだ。それを見た老人が信じられぬ物を見るような目でセラを見上げた。


「なんと。あなた様は、あなた様は」


 涙を流し、明らかな動揺。これまでの憤然としていた態度が一変する。

 不快に思ったセラは唇を引き結ぶ。

 盛大な歓迎をした後でのこの振る舞いは如何なものか。皮肉を言おうと思った時、そこにいた全ての人物が平伏した。


「えっ、えっ」


 トニヤがうろたえている。


 老人は静かに地に言葉を落とす。

「生まれた時よりの無礼をお許しください」




 状況を理解出来ない二人に老人は神妙な顔で古い記憶を語り始めた。



――この地が聖域とされるのはその昔、神々が精霊の血を播いてそれが芽吹き精霊王が誕生したことに由来する。

 精霊王の血は星の地下を巡り、奔流となって大地を駆け抜けた。血はその土地の自然や魂と結びつき多くの精霊を産んだ。

 この地はいわば世界の始まりの場所。この地は精霊が守ってきたものだった。


 ヴーアというのは元々、北方の寒冷地に住み着く狩猟民族だったという。


 ある時厳しい冬が訪れて、一部のヴーアがそれから逃れるようにこの地へと足を踏み入れた。戸惑ったのはこの地を守る精霊たち。

 何とか精霊王に近づけまいと人間を追い出すよう奮闘していたが、関わり合っていくうちに、ヴーアの自然を崇拝する心に打たれ次第に受け入れるようになった。

 ヴーアはとても心優しい人々だった。やがて共に暮らすうちにヴーアと精霊が混じり、多くの混血児が誕生した。


 人間と精霊と混血児は手を取り合い、共に『ヴーア』として邪悪な物からこの地を守って来た。だが今、この地に精霊はいない。精霊王の力の消失とともに息絶えたのだ。


 混血児や人間は経脈が無くとも生きられる。でも、精霊は生きられない。消えゆく仲間の姿に心を痛めながら、それでもヴーアはこの地を守り続けた。やがて、人も月日とともに絶えて、寿命の長い混血児だけがヴーアとしてこの地に残った。


 世界各地にはまだ精霊王の生き血が巡っている。だが、供給源が途絶えた今、それが途絶えるのも時間の問題、いずれ精霊はこの大地から姿を消す。無念な顔で老人はそう呟いた。




 ヴーアはどうしてまだこの地に残るのか。セラはそのことを不思議に思った、守る物が無い以上、どうしてこの地を守り続けるのか。

 それはセラが人と共に暮らせなかったのと同じ理由である気がした。

 不思議な力を持ったヴーアは普通の人間には受け入れられないのだ。ヴーアはこの地でしか生きていけない。


 それを問うと老人は目に光を湛え、「それは違う」と力強い声で断言した。



――ヴーアは今でも精霊王を守っている。



 そう言うと老人は立ち上がりついて来て下され、と言った。


 トニヤがついて来るのを気にした様子だったが「大事な弟なんだ」と告げると不承不承で納得した。長い氷の廊下を進み、さらに階段を降りて、人気のない所へと向かって行く。一人で帰れと言われても到底無理な程入り組んでいた。


 ここは大陸のどの辺りだろうと考える。氷の天井からは光が差し込みとても美しい。吐く息は白く、とても冷たいのにそれを忘れそうになるほど感動する。

 ここは長い時間をかけてヴーアの人々が作り上げてきた氷の世界なのだ。


 ひと際高い天井の広い空間に出てセラは息を飲んだ。


 巨大な心臓が凍りついていた。


「綺麗だ」


 旅で最上の感動が押し寄せた。触れていいものだろうか。目前まで近づき、手を伸ばす。心臓を覆っている氷は見た目ほど冷たく感じない。むしろ温かい。


「精霊王様です。あなたのお父様です」


 セラは驚いて振り向いた。老人が申し訳なさそうに目を瞑った。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る