8章 ヴーア

8-1 北の湖

 ウェストフラムの国を抜けると広大な針葉樹の森があった。

 針葉樹は乾いた褐色の大地に根を下ろし、微かな光を求めて懸命に手を広げている。この地にはわずかな陽光しか指さない。


 一日中明るい夜のような状態で、空に星はなく、代わりに巨大なオーロラがはためいている。紅、蒼、碧。上等な生地のように優雅で絢爛。その光景をセラとトニヤの二人の兄弟は食い入るように見上げながら歩いた。


 ウェストフラムから二人旅になった。


 困難な旅を各々続けてきたけれど、今は二人。一人旅にはいつも背が空くような感覚が付きまとった。気を抜けば、いつどうなってもおかしくない。それがぱたりと無くなった。


 背中を埋め合える人がいる、二人というのがいかに心温まるものか。それが兄弟ならなおさら心強い。

 隣で黙々と歩くトニヤを感じながらセラはそんなことを思った。


 ウェストフラムで再会した二人は宿屋に一日滞在して話すべきことを時間も忘れ話し合った。セラの最後の森での夜、何があったのか。体に出来たモノの正体。

 自身はこれからどこに向かおうとしているのか。


 にわかには信じ難いような話をトニヤは手を組んで考えながら静かに聞いてくれた。噛み砕かず、具体的に述べたつもりだったがそれでもトニヤは理解しているようだった。

 そんな様子を見ているともう自分が知っている小さなトニヤはいないのだな、とそんなことを思った。


 セラの話を聞き終えたトニヤは組んだ指の上に顎を置き、こう言った。


「で、セラはそれを知ってどうしたいの」


 セラは思わず、虚を突かれ言葉が継げなかった。

 ヴーアに会って自分の正体を知ってそれで自分はどうしたい。ヴーアと共に暮らしたいのか。


「分からない」


 セラにはそうとしか言えなかった。答えを導けない自分を少し情けなくも思ったし、弟に見せるべき姿で無いとも思った。けれども、迷っているのは事実だった。

 するとトニヤは質問を止めてこう言った。


「ボクがセラを連れ戻しに来たんだということだけは理解してね」


 冷え切った心を温める温かい言葉だった。


 トニヤは旅を続けるセラについて来てくれると言った。

 自分の我儘に巻き込むことはためらわれたが、それでもトニヤは何も言わず共に来てくれた。


 オーロラの下に広がる巨大なエメラルドの湖は海かと思うほど広く、鏡のようにまっ平ら。波はなく無音。

 二人はただその光景に圧倒された。


 イーリスの言っていた小舟を見つけ二人で乗り込んだ。オールを持とうとするとトニヤが「ボクが漕ぐ」と言って奪った。




 トニヤの漕ぐ小舟に揺られながらセラは神聖な場所であることをひしひしと感じていた。とても人が入り込んでいい領域ではない。

 静かな場所と言うのはどこにも存在するが、この場所は静かでなく死んでいる。

 生き物の気配は皆無で、オールの水面を掻く音だけが静かに響き渡る。


 セラはムルティカの老女が語った伝説を思い出した。



――クルタス神が北の地に生き血を播いた。命が芽吹いて精霊王が誕生した。精霊王の血が大地を巡りそこから種々の精霊が誕生した。


 

 伝説によればここはいわば始まりの場所。だが、この地には精霊の息吹が感じられない。豊かな自然と命の音が聞こえない。

 本当にこのような地に精霊やそれにまつわる人々が住んでいるのか。


「なんか、怖いねここ」


 トニヤが不安な様子で呟いた。オールを漕ぎながら、周囲に目を這わせている。

 不思議なものを感じ取る力は無くても、やはりこの空間の異様さは何となく感じ取っているのだろう。自身の感じる感覚を話そうとしたらトニヤが明るい口調で話し出した。


「でも、さ。なんかこうしてると思い出さない?」


 沈んだ空気を温めるように、悪戯を考えた子供のような調子でトニヤは歌を口ずさんだ。


「さあ、舟を漕いでどこまでもゆこおう、海はもうすぐだあ。いざ進めえ」


 懐かしさが溢れる。小さな頃、父と舟漕ぎごっこをしてよく歌った絵本の中に出

てくる歌だ。曲調などは自分たちで勝手に作ったものだった。


「あの頃は海って良く分かんなかったよね」

「そうだな」


 セラは口元を少し緩めた。


 トニヤは海を越えてセラに会いに来てくれた。セラはその気持ちが言葉に出来ぬ程嬉しかった。旅は大変だっただろう。分からぬことばかりだっただろう。

 トニヤは旅の苦労を語らなかったけれど、それはもう大きくなった背中で分かることだった。


 自分を必要としてくれる人がこうしているのに真実を求めるのがどれほど愚かなことか。もしかしたらそれは自分を愛してくれている者をないがしろにする行為なのかもしれない。でも知りたい、余す所なく知りたい。

 その正直な気持ちを吐露するとトニヤは「当然だよ」と笑った。


 人が自身のルーツを知りたがる気持ち、どうしてそんな物を持つのだろうとセラは思う。どうだっていいことじゃないか、とトニヤはひと言も言わなかった。

 もしかしたら心では思っているかもしれない。でも、それを口にしないのはトニヤの優しさだ。セラはそれほどに広量ではない。


「ねえ、セラ」

「何?」


「もしも、もしもだよ。ヴー……」

「ヴーア?」


「そう、ヴーア。ヴーアの人たちに会って、あ、自分こことちょっと違うなあ、って思ったらだよ」

「うん」


「……母さんとまた三人で一緒に暮らしたい」


 セラは目を丸くした。トニヤが真っ直ぐにセラを見ていた。心から出た言葉。恐らく言う機会を探っていたのだろう。とても真剣な様子だった。

ふっと笑んでセラは頷く。


「いいよ。オレもそうしたい」


 森を出て以降、浮き立っていた足元が初めて着地した気がした。

 どんなに世界を巡ろうとも新しい世界を知ろうとも、やはりセラにとっては二人の元が自分の在るべき場所なのだろう。


「森を出て皆でステラで暮らそうか」


 トニヤが元気にオールを漕ぎながら笑った。


「とてもいい町だと思うんだ」


 そう思うのは町の暗い部分を知らないから。でも、それには言及しない。知り合いもある程度出来たし確かに悪くない。金さえあれば暮らしよい町だ。


「セラは占いやって、母さんはパン焼いて、ボクは料理人」

「料理人?」


 セラは思わず噴き出す。思えばトニヤの夢は小さな頃から沢山あった。


「スコットリドリー先生に会ったご飯屋さんでね……」


 どうやら、上手い料理に感動したのだろう。感化されやすいのは相変わらずだ。

そんなことを思った時に、急にトニヤの話声が遠のいて行く。

 代わりに頭に飛び込んできた言葉。



――帰れ、カエレ、代えれ、返れ、孵れ、還れ、変えれ!



 セラは恐怖を感じて「トニヤ!」と叫んだ。トニヤがオールを漕ぐのを止めた瞬間、小舟の両側の湖面が沸騰したように膨れ上がった。

 その泡の中から二匹の巨大な水の塊――水魚が宙へと舞った。

 水滴を撒き散らしながら二人の上で大胆に交差し、盛大な飛沫を上げて湖に潜る。


 縁にしがみ付き湖中を覗くが、水肌をしているせいで気配が水に溶け、どこに泳いでいるかさえも分からない。だが、確実に舟の真下にいる。

 彼らのうねりを受けて小舟が左右に大きく揺れる。


 トニヤが青ざめていた。


「ボク泳げない」


 陸地はもうすぐだというのにここで湖を漂う哀れな藻屑となるのか。

即座に何とかしなければと思い立ちセラは立ちあがった。大切な弟を守れる者はもう自分しかいない。自分しかいないのだから。


 手を掲げあの力を使いたいと精霊に呼び掛ける。あの力があれば。指先に意識を集中し、神経を振り絞るように祈る。

だが、何も起こらない。


「ふざけるな、こんな時に」

「セラ!」


 トニヤの声に振り仰ぐ。巨大魚が水面から再び飛び上がると真っ直ぐ舟へと降り注いだ。舟への衝突と同時に大量の水が舟底を打つ。激しく波に煽られて二人は湖へと落ちた。


 即座に湖面に顔を出すとトニヤがもがいていた。セラはトニヤの体を支えると「落ち着けトニヤ! 大丈夫だから」と声を掛けた。だが、トニヤはパニック状態で、寄り添うセラもそれに巻き込まれる。

 沈みそうな体を懸命に足を掻いて支えるが、どんどんと沈んでいく。


 水魚は形を取り戻し湖面にヒレを出して、猛烈なスピードで二人へと迫る。捕らえられれば一溜りもない。自分はどうなってもいい。だが、トニヤがいる。

 トニヤだけは助けなければ。


 焦るセラの視界に光のカーテンが見えた。オーロラだ。


 冷静になり、手を翳し、もう一度祈りを込めた。今度はより集中して深く、静まり返った心で「我を助けよ」と呟く。


 心の中に作る波紋が魂を揺らす。掌に力がみなぎるのを感じた。


 セラの呼び掛けに呼応して、空が燦然とした。大きな共鳴音が奏でられ、オーロラの極光が落ちて加速する水魚を焼きつくした。

 蒸散していく水の塊。トニヤが震えながらセラの腕にしがみ付き、その光景を食い入るように見つめていた。

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