4-4 ハンプトン

 女性の言葉通りムルティカを発って三日過ぎても何も起こらなかった。普段通り漁もしたし、安心しきって呑気に昼寝もした。

 船長は一人神経をとがらせていたようだが、それもどうやら徒労に終わりそうだ。


 そろそろ午後の交代の時間だ。この頃航海術なども勉強し毎日が楽しい。自分は案外向いているのかもしれない。

 そう思いトニヤが伸びをした時、船がグンと後方に引かれた。


「どうした」


 ジャンクが操舵室に飛び込んだ。船の後方から声が飛ぶ。


「獲物がかかった」

「獲物だと」


 ディードとジャンクは甲板へと飛び出して後方に過ぎ去っていく海面を見つめた。遥か深くに魚影が煌めく。銀色に光る船を揺らすほどの大獲り物。


「ハンプトンだ」


 ジャンクが驚嘆の声を上げた。即座に船が湧き立つ。皆が一斉に引き上げの準備を始める。トニヤもそれに加わり、網を懸命に引いた。


「せーの」


 皆でリズムを合わせ、腰を落とし網をグンと引く。巻きあがった、と一瞬思ったらそれが即座に海面に引きずり込まれる。もう一度引くと今度はより一層海中へと潜る。


「何て力だ」


 ベテラン漁師のジャンクですら経験したことのない威圧。ハンプトンが強大な意思を持って逃げようともがいている。


「せーの」


 もう一度皆で一斉に引くと今度は船の縁が沈んだ。海水が乗りあげる。網から伝わる手ごたえはやはり並大抵の物ではない。


「このままでは網が破れる」


 ディードが叫んだ。


「破れるならまだいい。このままでは船が沈む。一つ失うのは惜しいが網を切り離そう」


 ジャンクの意見にディードが頷いた。

 その時声が聞こえた。


「無礼者が」


 水の奥深くから伝播する声。皆がざわめいて網を持つ手を緩める。


「声だ、声が聞こえたぞ」


 船中の人々が恐らくその声を聞いていただろう。


「我を捕縛するなどと」


 海中から強い怒りの念が伝わってくる。


「精霊だ」

 トニヤが唖然として呟いた。


「このハンプトンは精霊なんですよ」


 ジャンクに訴えかけて、海面を覗きこんだ。先ほどよりも浮上しているようで姿が良く見える。


「ハンプトンが精霊だと、そんなこと」

「さっきの声皆聞いていたでしょう。彼は恐らく精霊の魂が宿ったハンプトンなんです」

「いや、しかし」


 ディードがうろたえた。


「精霊ならば手出しは出来ないな」


 ジャンクが信心深い様子で落胆の色を見せた。その様子を見てトニヤは拳を握りしめた。


「ハンプトンを釣りましょう」


 海面が激しく波飛沫を上げる。ディードとジャンクが唖然とした。


「お前は何を言ってんだ」


 ジャンクが信じられぬといった様子で怒鳴り声を上げた。ジャンクの怒鳴り声を

浴びるのは久しぶりだった。


「ハンプトンを釣り上げるのは海の男の誉れなんでしょう」

「相手が精霊なら話は別だ。それにこのままじゃ船が。網も直に破れる」


 ディードが困った様子で腰に手を当てた。


「海面に顔を出した瞬間を狙ってケーブルのついた銛を打ち込みましょう」

「オレは精霊に手出しするなんて」

「命は巡る物。ここで出会ったことに意味があると思うんです」

 

トニヤの必死の訴えにディードとジャンクの二人は黙りこんだ。こうしている今も乗組員たちは必死の攻防を繰り広げている。


「せっかくの栄誉を捨ててしまうんですか」


 トニヤの言葉に二人はハッとした様子でこぶしを握り締めた。


「……よし分かった」


 少しの間の後、決意したディードが深く頷いた。


「これよりハンプトンを捕獲する。指揮はジャンクに任せる」


 そう言うとディードは操舵室へと飛び込んだ。戸惑っていたジャンクも覚悟を決めた様子で「よっし」と意気込んだ。


「銛が打ち込めるくらいまでは網で引き上げる。無理に引っ張るな。破れると元も子もない。オレの合図に合わせろ」


 トニヤも加わり、網の端を手に持つ。


「せーの」


 掛け声に合わせて皆で一斉に網を引く。ずりずりと音を立てて、網が船縁に擦れながら姿を見せる。もう一度「せーの」とジャンクが掛け声をする。


 誰もが決死の思いで戦った。攻防を半刻ほど続け、やがて魚影がしっかりと見えるようになった。ジャンクが極太の縄のついた銛を構える。

 大型魚用のものだと聞いていたがトニヤが乗船して使うのはこれが初めてだった。


 ジャンクが鋭い眼光でハンプトンを睨みつけ、重心を後ろに移動させた後、左足を踏み込んだ勢いで銛を投擲した。銛がハンプトンの背に突き立つ。


「ぐおおおおお」


 のたうつ精霊の声が海を揺らした。続いてジャンクが第二射を構える。船にはこれ以上銛がない。慎重に狙いを定めると再び投擲した。


 銛は脳髄を貫き、ハンプトンの命を襲う。すさまじいほどの苦しみに気圧されそうになるのを耐えて皆で手分けして網と銛を引く。トニヤも力の限り銛を引いた。荒い麻紐に掌が擦り切れ血が滲む。より一層力を込めて。


「せーの」


 心を一丸にして紐を引いた時、ハンプトンが雄大に空へ跳ねた。

空中を高く舞った後、ざぶんと大きな飛沫を上げて海中へと潜った。


「トニヤーーーーーー」


 ジャンクの名を呼ぶ声が海上に木霊した。




 トニヤは懸命の力で縄を握り銀色の巨体にしがみついていた。


「絶対放さない、絶対放さないぞ」


 ハンプトンは網を突き破り、自由へと泳ぎだす。


「小僧離れろ」

「いやだ、放すもんか」

「精霊に手を掛ける意味を知っているか」


「何だっていうんだ」

「呪詛を喰らうことになるぞ」


 呪詛、その言葉に目が覚めるような思いがした。そうか、セラは精霊に手を掛けたのか。


「さあ、生きたければ手を放すがよい」


 トニヤの手がゆっくりと緩んでいく。手からするすると紐がすり抜け、どんどん精霊の姿が遠ざかる。

 その時、頭の中を船員たちの笑顔がよぎった。懸命に働く船員たちの姿が指先へと伝わる。


 トニヤは紐を握り直し再び手に力を込めると強く念じた。


「お前を絶対捕まえる。絶対に」


 次の瞬間、ハンプトンが大きく左右にうねり、海面を弾いた後、空中へと躍り出た。


「トニヤ!」


 空中へと打ち上げられたトニヤの身を懸命にジャンクが掴み、セレス号へと引き戻した。ジャンクの指示でノアが急いで銛の紐を切った。


 銛の紐の切れ端が速やかに海に消えていくのをトニヤはジャンクの腕の中で見送った。




「馬鹿野郎。死んじまうところだったぞ」


 潮にぬれた顔でジャンクが叫んだ。トニヤは力なくへへへと笑うと傷む掌を目の前に掲げた。皮が破けてじわじわと血が滲み始めている。


「あとちょっとだったのに」

 そう言って手を力なく落ろす。


「二度とすんじゃねえ」


 二度と。トニヤは薄れゆく頭で考えた。そもそもハンプトンにまた会えるのだろうか。ノアはハンプトンに出会えるのは僥倖だと言っていた。自分はそのチャンスを逃した。逃がした魚はでかい。とてつもなくでかい。

 一体どんな味がするんだろうな、一度でいいから食べたかった。短い間にそんなことを思い浮かべた。


「二度とお前たちとは会うまい」


 トニヤは目を見開く。突如聞こえたハンプトンの穏やかな声と共に景色が一変した。乗組員たちは慌てふためいた。

 天に光りが溢れ、景色がかあっと白くなりその後、海中の光景が全天に広がった。


 濃紺の海に見えたのは大海を雄大に泳いでいくハンプトンの大きな背中。水を掻きわけて深海へと潜っていく。辿り着いた先で見えたのはハンプトンの魚群。

 数え切れないほどのハンプトンが群れを成して泳いでいた。魚群は銀色の細い線となり海に模様を作りながら遥か彼方へと消えて行った。


 景色が戻ると皆で肩を抱き合って一刻の幻に興奮した。


「あれはやっぱり精霊だったんだ」


「オレたち海の主にあったんだよ」


 トニヤは急に力が抜けてジャンクの膝に頭を降ろした。賑やかな仲間の声がだんだん遠のいて行く。ひどく疲れた気がする。

 彼は偉大だった。自分ごときに手が出せないほど偉大なのだ。この先海が枯れ果てない限り彼の命は続いて行く。ずっとずっと永遠に。

 そんなことを思いながらトニヤはふっと意識を失った。




 セレス号はその後航海を続けてとうとうノーザンピークの漁港へと辿りついた。トニヤは持ち切れぬほどの思い出を抱えて皆に見送られながら船を降りた。


「いい男になった」


 ジャンクが感慨深げに言った。巨大魚との戦いはトニヤを成長させた。


「ジャンクさんもです」


 トニヤの受け答えに乗組員たちが笑い声を立てる。


「生意気言いやがって」


 ジャンクはトニヤの頭をがしがしと撫でた。トニヤは少し日に焼けて腕にはしっかりとした筋肉がついた。背も乗船したころより少し伸びていた。


「船で学んだことは今後の人生に生きる。しっかりといい大人になるんだよ」


 ディードの言葉にトニヤは「はい」と笑顔で頷いた。


「トニヤ、戻る時はまたこの船に乗れよな」


 ノアの言葉にトニヤは「ええ、また働くの」とうんざりとした顔を見せた。ジャンクがぽかりとトニヤの頭を叩いた。また、笑いが起きる。


「ステラの町はここから歩いて一時間もすれば着く。素敵な町だけれど占いに凝って散財するんじゃないよ」

「はい」


 トニヤは何度も振り返り手を振っては前へと進んだ。


 歩くうちに夕暮れに星が浮かび始めた。幾度となく海で眺めてきたが、今日の星空は違って見えた。燃え立つように力強く、そのどれもに命が宿ったように輝いている。この星空をセラはきっと眺めている。ステラの町に必ず居る。

 辛くても、もう泣かないと決めた。逞しくなった自分を早く見てもらいたかった。


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