3-4 嵐の海で

 船舶は新たな乗船客と大量の食料を積み込み再び航海へと出た。次の目的地はルビニークという島。ムルティカからは五日ほどかかる。

 この辺は島々が多く、頻繁に寄港しながらの旅路になるので下船の機会が増えると副船長に聞いた。マーティスはそれが楽しみなようでうきうきと浮かれながら仕事をしていた。


 ムルティカを離れて三日が経った。セラは甲板で副船長がムルティカで新たに購入した民俗学の本を読んでいた。世界のことを知れると期待したが内容は凡そ、ムルティカのクルタス神の信仰と精霊についてだった。

 何と言うか真実というより殆ど願望を書いた本のように感じられ、特に島に流れる経脈から精霊が湧き出ているというのには胡散臭さを感じた。


 ただ、事実か、ということを除けば面白い本だという評価は出来る。何しろ見聞が広がった。いつかムルティカを訪れたいという人に出会えば面白可笑しく本を紹介するのもいい。そんなことを思いながら本を閉じた。


「オレが買った本をオレより先に読むなよ」


 本を戻すと休憩中だった副船長が笑った。


「まあまあ、面白かったですよ」


 そんな冗談を挟みながら新しい本に手を伸ばそうとした時、背筋を寒気が駆け上がった。



――経脈に乗った。



 慌てて甲板へ出ると先程まで晴れていた空に暗雲が立ち込めていた。高波が押し寄せ船が大きく上下する。甲板に波が乗りあげて人々が船室へと走る。


「さっきまで晴れていたのにウソだろ」


 操舵室から出てきた副船長が帽子を押さえながら叫んだ。


「さあ、セラ入るんだ」


 副船長はセラの腕を掴み、船室へと引き入れた。




 人々は不安な夜を過ごした。騒ぐのを止めてじっとハンモックに身を潜め、けれど眠れるはずもなく、揺れる船室で船が沈まぬように祈った。

 旅に出てこれまでにも雷雨の日はあった。でもそれは恐らくただの天候不順。今度のとは違う。セラはそれを肌身でひしひしと感じていた。


 実際、今度の異変は三日三晩続いた。激しい落雷と吹きつける風の音、船は激しく揺れ、5年以上船に乗っているマーティスでさえ「こんな嵐は初めてだ」と不安そうに漏らすほどだった。


「沈んだらどうしよう」


 不安がる人々の声が浮かんで消える。


「ああ、神よ。どうか我々をどうかお救いください」


 祈るような仕草をして恐怖に耐える人々の姿はどこか哀れだ。


 セラは本を読みながらじっと考えていた。今、船は恐らく経脈に乗っている。それも相当に良くない精霊の居る経脈に。

 これまでの航海でも経脈に乗っていると感じることは多々あった。別に経脈が悪いというわけではない。

 経脈とは精霊が溢れる場所というだけのことだから。


 問題は経脈と混ざり合う思念の種類。森がそうであったように海にも悪しき思念は存在する。


 このまま進めば船は間違いなく遭遇してしまうだろう。海に嵐を起こすほどの魔物に。


「ああ、しんどいな」


 副船長が隣のハンモックに寝そべった。船舶の乗務員は精神を削るように海と戦っている。


「航路を変えてはどうですか」

 セラはそっと助言した。


「とっくにやってるよ。でも舵が効かないんだ」

 そう言うと副船長は帽子を顔の上に置いて腕を胸の上で組んだ。


「似ているんだ。あの時に」


 副船長は悲しげに呟いた。あの時、というのは恐らく以前一度だけ精霊を見たという時だろう。


「今度は船ごと沈むかもしれないな」


 セラは何も返せず、黙ってそれを聞いた。




 次第に船が軋みを上げ出した。眠れず船室の隅に座り込み体を縮こまらせ、いよいよ沈むと怯えている者もいる。

 セラは考えた。自分に出来ることは本当に無いのか。精霊が見えて話すことが出来るのはこの船で恐らく自分ひとり。


 人に知られることを恐れている場合ではない。このままでは船は本当に沈む。何とかしなければ。


「話の通じる相手だとは思えないけれど」


 決意して立ちあがると甲板へと飛び出した。


 甲板は立っていられないほど吹き荒れて、濡れた木が滑る。何とか、手すりを伝いながら船の縁へと取り付き海面を見た。


 海面には不気味なほどたくさんの海の藻屑の精霊がいた。船を取り囲み笑っている。操舵が効かないのは恐らく彼らの力によるものだろう。


「お前たち、今すぐ船に取りつくのは止めろ」


 セラは手を振り払う仕草をして精霊たちを怒鳴りつけた。雷の合間に精霊の声が届く。


「セイレーン様の所にお連れするんだ」


 幼い子供のように邪気のない声。セラはチッと舌打ちした。


 やはりこの嵐は精霊の起こしたものであった。それも絶大な力を秘めた魔物。


 セイレーンとは海に掬う美しい女の精霊。海で死んだ人間の無念から生まれると海で生きる者なら一度は聞いたことがあるだろう。

 局地で激しい嵐を起こし、船を海に引きずりこみ藻屑とする恐ろしい精霊だと。


 海の藻屑の精霊たちが波に乗りながら歌を歌い始めた。


――海に沈む魂となれ、波に飲まれて皆沈め。


 どこかで聞いた民謡のように古く寂しい曲調に空恐ろしさを感じた。


「今すぐその歌を止めろ」


――祈りなさい、生きて出られぬよう祈りなさい。


 なおも続く精霊の歌にセラは歯噛みする。

 苛立って力いっぱい船の縁を叩いた時、一匹の精霊が縁から顔を覗かせた。青みを帯びた透けた体躯、ガラスのように華奢な手足。ふっくらとした頬は男児のようなあどけなさだった。


「お前、死ぬのが怖いのか」


 そう言ってくすくすと笑う。


「怖いのか」


 再度問いかける精霊にセラは苛立ちを隠せない。


「お前たちの仲間になる気はない。早く船から離れろ」

「セイレーン様はこの船を気に入った。喜んでいらっしゃる。また来た。大きな船がまた来たと」


 また。この海域で飲まれた船がやはり他にあるということか。


「怖いのか」


 三度目の質問にセラは答えられなかった。


「お前たちは本来自然を司る純真な精霊ではないのか。本当に人々の命を望んでいるのか。邪精であるセイレーンになぜ従う」

「偉大な海の統治者には誰も逆らえない」


 セラは一方の手で縁を掴み、もう一方の手で精霊の胸ぐらを掴んだ。


「なら、セイレーンに伝えろ。セラが話をしたがっていると」

「伝えたきゃ自分で伝えるといい」


 そう言って小さな精霊はセラの手から逃れると海へと帰った。同時に船に取りついていた精霊たちが一斉に離れていく。彼らが波間へと消えた後、より一層船が上下した。


 余りの激しさに目をつぶり、海上に放り出されぬよう力いっぱい縁にしがみ付いた。一番下がったところで大量の海水を拾い、上がり切ったところで海水を一斉に撥ね上げた。

 その後、海がすっと凪いで雷雨と暴風が全て止んだ。


 船の揺れがぴたりと収まり、目を開けたセラは水平面に神々しい光を見た。太陽が昇ったのかと思うくらい眩しくて目を逸らしそうになるほどの強さだった。


 黄金色に光る海面で、長い髪をした透けるように繊細で淑やかな女性が微笑んでいた。セラは言葉を無くし呆然とした。


 突然嵐が止んで、驚いた乗船者たちが船室の扉を開けてぽろぽろと甲板に出てきた。


「ひっ、セ、セイレーンだ。海の魔物だ」


 セイレーンの姿に皆慄いた。どうやらセイレーンの姿は通常の人にも見えているらしい。悲鳴を上げながら船室へと逃げ込む者もいれば、脱力してその場に屑折れた者もいる。人々の動揺が甲板を揺らした。


 セイレーンは穏やかに微笑みとそっと囁く。


「沈みなさい」


 セイレーンの言葉に突然船を覆う海面がぼこぼこと泡立ち始めた。皆異変を感じ取り、慌てふためいた。


「船が沈んでいる」


 ひとりの言葉に縁から皆海面を覗き込んだ。船体がゆっくりとゆっくりと下がっていく。発狂した者の叫びが重なり恐怖を呼んだ。


「さあ、沈みなさい」


 セイレーンは笑みを湛えたまま両手を広げた。泡立った海水が縁の高さを越えて、美しい水柱となり、それが一気に甲板に注ぐ。波打ち際に押し寄せる波のように柔らかな海水が足元を浸食した。


 セラはこぶしを握り締めセイレーンへ向かって叫んだ。


「オレの身を奉げる。だから船を解放しろ」


 セイレーンが鮮やかに笑う。


「欲しいのは船です」


 船は海へと飲まれた。

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