3章 海路

3-1 旅情


 世界には六つの大陸がある。命の森があるは南端のドムドーラ、その遥か北方にあるのがノーザンピーク、そしてそれを結ぶのがティエリア海。

 セラはティエリア海に浮かぶ船舶にいる。乗ってから既にひと月が過ぎようとしていた。


 起伏のないまっ平らな水平面と空の境界に幾度となく現れる小島、始めは見えるたびに新しい大陸が見えてきたのではないかと心を躍らせたけれどもこの頃はそんな景色に飽きてしまい見るのも止めた。


 時折大小の渡り鳥が甲板に留まり餌を探していく。動物好きの陽気な船の男たちは酒の摘みの木の実を甲板に巻いて鳥たちへと分け与えた。彼らは木の実を懸命に拾い満足するとまた空へと飛び立っていった。


 昨日は曇り、今日は晴れ、でも明日は雷雨だってあり得る。海の天候は変わりやすいということを航海で学んだ。そして天候の良い日は今日のように人が甲板にたくさんいる。

 カードゲームに興じたり、音楽を奏で皆で踊ったり、昼間からワインを飲んだり。けれど、そのどれにも混ざる気に慣れず、日中セラは甲板の一番高いところに腰かけ、本ばかり読んでいる。


「そんな本が面白いかい」


 セラは顔をあげて隣に立った人物を見上げた。船長が手すりに凭れセラをじっと見ていた。


「面白くはないけど読みやすい」


 視線を落として再びセラは文字を追う。今読んでいるのは『サリスの旅情』という本だ。サリスという女性が故郷を捨て世界に出て、各地を巡り先々で魅惑的な男たちと不倫する。

 まあ要するに官能本だ。森にいた時は官能本など読んだことがなかったので、どんなものだろうと思って読み始めたが思いのほか詰まらなかった。すぐに惚れてすぐに飽きる。新しい男を見つけてはまた心酔する。


 物語として破綻しているところも多々あったし、支離滅裂なセリフを口にするヒロインなのでそれを読んでいると世の中の女は皆こうなのか、と呆れ返ったりもした。ただ、評価すべき点もあってそれは旅の本だけあってこの世界のことがふんだんに書かれていたということだ。


「オレもサリスのように旅をしたい」

「不倫に出かけるのか」

「違いますよ」


 思わず笑いが零れる。

 森にいた頃書庫で読んだ本の中にも世界のことを書いた本は多々あった。もしかしたら森の子供たちに世界のことを知ってほしいという父の願望なのかもしれない。

 セラ自身は冒険心に溢れたタイプではないので読んで外にあこがれを持つことはなかったけれど、読むことで世界への造形は深めた。


 セラは読み終わりぱたりと本を閉じた。


「あまり好きな本じゃなかったな」

「そうかい」


 呆れるような船長の笑い声に笑みながら立ち上がると船室へと向かった。


 船室に備え付けられた本棚にサリスの旅情を返す。本棚にあるのは殆どが副船長の私物だ。世界を回り各地で手に入れてきた物だと聞いた。

 副船長は全部読んでしまったため、今手に取る人は殆どいないらしい。


「ああ、セラ。もう読み終わったのか。あまり面白くなかっただろう」


 用事で船室に戻って来た副船長が声をかけた。いきなり面白くないと来たので笑ってしまう。それなら読み始める前に教えてほしかった。


「人生の反面教師にはなりました」

 違いないと副船長が頷く。


「文章も問題だ。何と言うか、ストーリーに起伏がないよな。のっぺりとストーリーが続いている印象だ」


 そんな読み方はしなかったけれど、それは恐らく経験の差かもしれない。まあ、本好きな副船長がそう言っているのならばそれも一つの意見だろう。


「全部取っておいてるから面白いんだろうって勘違いしちゃうんですよ」

「人生の思い出だからつまらなくても捨てられないんだ」


 それはあるだろうなとセラは思う。


「『大地を生きる』は読んだか? あれは中々良かった。筆者の筆力と意気込みを

感じたな。気が向くと読むといい」


 そう言うと副船長は用事を済ませて甲板へと戻って行った。セラは大地を生きるを探すと再び甲板へと戻った。


 

       ◇



 火を放ち、森を出たセラは北へとひた走った。


 誰かが追いかけて来るに違いない。始めはその恐怖でいっぱいだった。休むことなく一晩走り続け、ようやく追手がないことを知るとセラは広野に座り込み涙を零した。

 父の魂を燃やしてしまったこと、消えていった多くの命、彼ら自身が望んだこととはいえ辛かった。肌や衣服は煤で汚れ、金もない。打ちひしがれる心に鞭をうち、北へと歩いた。


 森に一番近いのは数十キロ先のロドリアという港町だということは父から聞いて知識にあった。歩き続けていればそのうち辿り着く。だが、ロドリアは存外に遠かった。


 そのうち歩く力も尽きて、空腹で立ち上がれなくなりへたり込んだ。最後の食事から四日、腹は膨らむことを忘れ、喉は乾いて水を求めた。


 棒になる足を奮い立たせ、やっとロドリアに到着したのは幾番目の夜だった。


 生まれて初めて見る町と言う場所。活気にあふれ、夜だというのに松明がそこら中で明々と燃えて人々の笑顔が輝いている。見たこともない石造りの頑強そうな建物が通りにびっしりと立ち並び、窓から室内の明かりがもれて酔った男たちの野太い笑い声が聞こえてきた。


「あんたたち、いい加減にしてくれよ。さっさと帰ってくんないとアタシが寝らんないんだよ」


 低い中年女性の声がする。しばらくして建物の中から恰幅のいい女性が出てきた。


「酔ってそこで寝るんじゃないよ」


 肩を組んだ男たちはひらひらと手を振ると女性に別れを告げて、夜の街へと消えた。


 女性が建物に入ろうとした時、ふと目があった。女性は一度目を逸らしたけれど、もう一度視線を合わせると「おいで」と手招きした。




 何しろ初めて見る物が多かったのでセラはそこが酒場と理解するのに多少の時間が掛った。棚に並ぶ大量の酒とたくさんの丸机に乗ったままの食べ終えた皿。女性が「手伝ってくれよ」と言ったのでセラは仕方なく皿を運んだ。


 二人で手分けして机を拭き終えると女性は「そこに座りな」と言って料理を出してくれた。セラは突然の好意に戸惑い食べていいものか迷ったが、女性がにっこり笑って「食べな」と言ってくれたので遠慮なく食べた。


 空いた腹に突然食事を放りこんだものだから胃がきゅうっと苦しくなる。それを我慢しながら、次々と口へ運んだ。


「あんた浮浪児だね」

 セラは手を止めた。


 浮浪児と言う言葉の意味は知っている。だが、自分はたぶんそれに当てはまらない。いや、家を捨てたのだからもしかすると、もうそうなのかもしれない。

 セラが黙って頷くと女性が笑った。


「あんたたちみたいな子を見ているとアタシゃ切なくなるんだよ。お腹空いていたろう、いっぱいお食べ」


 セラは黙々と食べた。

 食事を終えた後、セラは立ち上がり壁に貼られていた古地図を見た。命の森がある場所は国名も何も無く緑一色で塗られていた。ロドリアを表す点と命の森の北端は地図上でいうと3ミリほどの距離、これほど歩いてやっと着いたというのに地図に表わすとたった3ミリだった。


「今夜泊って行くかい?」


 片付けを終えた女性が隣に立って問いかけた。普段なら警戒すべきところだが、疲れ果てたセラにその神経を張り巡らせる余裕は無く、こくりと頷き好意を受けることにした。


 女性の宅は店に隣接していた。店の裏口から出て目の前の石階段を上り二階の木製の玄関から入る。家族は居ないらしく部屋は真っ暗。入ってすぐ女性は蝋燭を灯した。すると暗みに黄色い小さな玉が二つ浮かび上がる。女性は黒色の猫を一匹飼っていた。


 女性が風呂も貸してくれると言うのでセラは言葉に甘えることにした。


 鏡の前に映る自分はひどい有様。これじゃ浮浪児と思われても仕方ない。薄汚れた服を脱ぎ、露わになる素肌。そこで思考がぴたりと停止した。


 鏡に映ったのは大きな文様が現れた半身。

 黒い蔦のような文様が胸部を這っていた。刺青とも見紛う立派な物。世界には体に刺青を施す部族もいて、丁度このような形状をしているということは本から学んでいた。


 しかし、これは彫った物ではない。先日までは無かった物だ。いつの間にこんな模様がついたのだろう。恐々と指でこすったが取れる気配は無い。ふと考える。

 記憶を辿り、唯一考えられるのは、あの時。


――エルダーの実を飲んで体が光った時。


 思考を深くしていると立てつけの悪い木戸の向こうで女性の声がした。


「ドアの前に着替え置いとくよ、息子の物だけど使っとくれ」


 女性の気配が消えるとセラは風呂へと入った。




 結局風呂で洗っても文様は消えなかった。女性の用意した寝間着はぎりぎり文様が見えるか見えないくらいかだったので、隠すように布団に潜り込んだ。女性がベッド、セラは古びたソファだった。


「あんたどこから来たんだい?」


 暗がりで女性が話しかけてきた。セラは答えるのを少し戸惑った。


「南から来た、それ以上は言えません」

「しゃべれるんだね」


 女性の驚きに自分が一度も言葉を発していなかったことに気付く。


「詮索するつもりはないよ。この町には流れ者は多いから」


 女性が寝がえりを打ってセラに顔を向けた。


「あんた金は持ってるかい」


 セラは一瞬、金銭を要求されているのかと思った。


「金がなきゃ生きていけないだろう。あんたは顔もいい。女性客が喜ぶ。どうだい、少しうちで働いて行かないかい」


 セラは逡巡した。長居をするつもりなど微塵も無かった。でも、女性が言うとおり金は必要だ。生きるのに金が要るというのは世界の常識。親の庇護を受けていた森ではその意識が希薄だった。

 森に帰れない以上、一人で生きていかなくてはならないのだから。


「あまり役に立たないかもしれませんよ」


 セラの言葉に女性は笑いながら頷く。


「ホントに使い物にならない子はそんな心配しないものだよ」


 セラは結局女性の店でふた月働いた。


 女性は名をオミールと言った。大変慕われる好人物で彼女の店はいつも酔った船乗りたちで満杯だった。皆、二の腕が逞しく盛り上がっており、日に焼け、豪快に良く笑う。酒を浴びるほど飲んで、夜が深くなると連れ立って帰って行った。


 店は毎日パーティをした後のように散らかったけれど、オミールはそれを愚痴ることなく片付けた。セラもまた黙ってそれを手伝い、そうしているうちにオミールの人柄をだんだんと理解した。


「あんた仕事は丁寧だし、客の評判もいい。もうちょっと笑えばいい男だよ」


 セラは苦笑する。自身が笑顔が得意でないのを見抜かれているのだ。


「もう少し笑いますね」


 机を拭きながら、口元に笑みを作る。


 セラは繰り返しの日々に楽しさを感じていた。森を出て以降精霊の姿は見ていない。ふと、癖で姿を探すことはあったけれどこの町に精霊はいなかった。ずっと居るのが当たりまえの日々はもう遠い過去。


 森ではずっと人が嫌いだった。陰湿で、何かに脅え、自分と違う者を差別する。でも、今は違う。笑い声や笑顔に心が動く。

 セラは働きながら人生で初めて感じる人間と触れ合うことの喜びを深く噛みしめていた。

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