2章 消えゆく森

2-1 森の消失

 大樹の焼失から二年が過ぎた。


 大樹の加護によって栄えた森は荒廃の一途をたどっていた。死にゆく森にしがみつく人々。子供のトニヤに大人の事情は分からなかったけれど、大樹に宿った高潔な精霊を木ごと兄のセラが焼いてしまった事実だけは理解していた。


 森の住民の中にはセラを探し出して殺せという者もいたけれど、肝心の長老にその意気は無かった。

 大樹を失った長老は心労から体を病み、床へと伏せる日が多くなって住民の間ではもう長くないという噂が立つまでになった。


 トニヤの日々は森の書庫で過ぎていった。元々、本好きな方ではなかった。勉強はあまり得意でないし、字を追うのも苦手。その理由は絵本の読みすぎにあると思う。


 小さな時、父ロアはよく自宅に異国の絵本を持ち帰った。自身が仕入れてきた書庫行き異国の絵本。森で一番に読むのはトニヤたち兄弟だった。


 セラの読み聞かせが大好きで何度も何度もねだりながら絵本を読んでもらった。絵本が好きなあまり、反って絵の無い本が苦手で、本末転倒トニヤは本が苦手な子に育ってしまった。


 そのトニヤが本を読むのには理由がある。セラを感じたいからだ。本を読んでいると優しく賢かった兄の姿を今でもしっかりと思い出すことが出来たし、森の書庫には兄の残り香が漂っていた。

 セラの座った窓辺、眺めた景色、触れた本たち。セラを悪く言うものが大半の森でトニヤはセラを信じていた。


 帰宅すると母のシーナが焼き菓子を焼きあげたところだった。甘いものが大好きなトニヤはそっと近寄り天板から一つさらう。そっと口に入れるとほのかにスパイスが香った。


「これすっごく美味しい。何入れたの」

「ルルスの実よ。フィボットさんが森で摘んできたのを分けてくれたの」


 フィボットというのは森で一番古い木こり。森を良く知る、寡黙な働き者だ。歳はよく分からないけれど、ずっと前からおじいさんのような気がする。

 もじゃもじゃと生えた長いひげがトレードマークの少し厳つい、けれどたまに笑うととってもチャーミングな人だ。


 セラの一件以降、森の住民はトニヤと母に、より一層無関心になった。責め立てることもなくただ、無視するだけ。時々、寂しくなることもあったけれど、そんな中フィボットだけは変わらず良くしてくれた。


「お礼しないとね」

「クッキーを持って行って頂戴」


 母は布にクッキーを包んで手渡した。




 フィボットは日中集落に戻らない。今の時間はきっと森の回廊にいる。


 森の回廊とは精霊の泉の奥、大樹の根元までの道のりのことを指す。トニヤはクッキーの包みを手に精霊の泉へと向かった。


 幼いころトニヤは泉に読書に行くというセラにくっついて何度もこの道を歩いた。小さな手を繋ぎ森の声に耳を傾けたものだ。歌う鳥たちの声、求愛する鹿の嘶き。風が吹くとたくさんの木の葉が柔らかいメロディを奏でた。それも懐かしい記憶。


 今、この森に動物たちはほとんどいない。大樹の消失から間もなく、皆森を捨てた。日に日に力を失っていく森を見つめながらトニヤはセラのことを思った。


 セラは大樹の焼失と共に姿を消した。どうしてセラが大樹を燃やしたかトニヤには分からない。セラはいたずらでそんなことをするタイプではないし、だから初め母から聞かされた時はひどく驚いた。


 仕方のないことだったのよ、直接そう言ったわけではなかったが母はセラの罪を受け入れているようだった。

 死人が出なかったのは幸い、だが大樹を失ったことで人々は不安になり、ちょっとしたことにも苛々として住民たちの間で諍いは絶えなくなった。


 長老が健在ならもう少し、何とか出来るのかもしれない。頭を失った大人たちはこの頃森を捨てるか捨てないかで揺れている。捨てるという意見も良く分かる。   

 皆、尽きていく森の命を見ていられないのだ。けれども、千年この地で暮らしてきたのに大挙して今さらどこに行くと言うのだろう。


 幼き子ども、足を痛めた年寄り、病気を抱えた人々、そんなことまで考えているのだろうか。それよりは新たな長老を立て、一致団結して森の再生に取り組むべきではないだろうか。十二歳の子供のトニヤですらそんなことをこの頃良く考えている。




 泉に着くとフィボットが畔でパンを齧っていた。まだ昼の時間ではないけれど、早朝から森に潜るフィボットはこの時間空腹になるらしい。トニヤの顔を見ると一瞥してまたパンを齧った。


 トニヤはフィボットの横に腰かけて黙って泉を見た。泉は濁っている。セラは以前泉には精霊がたくさんいると言っていた。でも、結局トニヤは一度も精霊を見たことがなかった。


 精霊というのがどんなものか、絵本の挿絵で何となくは理解したけれどセラに言わせれば、それは見たことがない人が想像で描いたもの。とのことだった。


 羽が生えている精霊はほとんどいないし、顔色はあまり良くない。人型でないのもいるし、とにかくみんなフワフワしている。

 説明しようとさっと絵を書いてくれたこともあったけれど何しろセラは絵がヘタで、結局、精霊の正体が分からず仕舞いだった。


「水濁ってるね」


 トニヤはポツリと呟いた。


「精霊が居なくなったからだ」


 フィボットは低い声で抑揚無く言った。


「フィボットさん精霊が見えるの」

「以前一度だけ会ったことがある」

「聞かせて」


 トニヤはフィボットに向き直ると顔を少し近づけた。


「若い頃だった。妻に病気で先立たれ仕事も出来ず毎日落ち込んで、この泉のほとりで泣いていたらある時、泉の精霊が姿を現した。最初それが精霊とは分からず、人間の女だと思ったよ。

 でもよくよく見ると肌は透けて儚く、息を飲むほどのとても美しい生き物だった。精霊はそっと澄んだ声で、妻の髪の毛をこの泉に沈めよ、と言った。そうすれば思い出に会うことが出来ると言って。半信半疑で自宅に戻り、妻のブラシから髪の毛を一本とってきた」


「それで?」


「沈めるとしばらくして泉に花壇が映った。妻の大切にしていた花たちだった。私の顔も映った。妻の誕生日を祝った時の思い出だった」


 トニヤは黙って頷く。


「精霊に会ったのはそれが最初で最後。精霊というのはもともと人には見えない。格の高い精霊だけが自らの意思で人前に姿を現しその思いを伝えることが出来るという」 

「この森に精霊はもう居ないのかな」


「大樹が燃えてこの森を支えていた精霊は死んだと誰もがウワサしている。周りの精霊もこの地を去ったに違いない。精霊のいる森は緑豊かで流れる水は皆美しいと聞く。この森は精霊の加護を失った」


 トニヤは少し考え込んでこの二年誰にも言えなかったことを口にした。


「セラは悪いことをしたのかな」


 フィボットは少し返答に困った様子で笑った。


「精霊は大地を巡るもの。新たな地を求めて旅に出たのだよ。セラはこの森の人々を救ったんだ。お前の兄を信じなさい」


 フィボットの優しく大きな手がトニヤの頭を包む。トニヤは泣きたくなって顔を伏せた。

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