1-4 エルダーの木

 夜、自室のベッドの上で眠れず子供のように絵本を握り締めていた。頭を占めるのは決して子供らしくない憎悪の思考。生き物、人々、森を取り巻く全ての命が憎くて堪らなかった。誰が父の孤独を理解したというのだろう。


 さぞ恐ろしかっただろう、無念であったろう。一人死んでいった父を思うと焼けつくような気持ちになった。

 自身の死を覚悟して綴ったあの一つの物語が示唆するのはセラやトニヤへの警告と愛情だ。


 大人たちの遮る森の奥にエルダーマザーがいて大樹――エルダーの木がある。そう思うだけでおぞましさが増す。父はエルダーの木を切り倒そうという提案をした。未来を生きる子供たちの為に。そのために長老の機嫌を損ね、供物に選ばれたのだ。


 木がある以上、毎年誰かがその身を奉げなければならないという負の連鎖が続く。ゆえにあの木だけはここにあってはいけないのだ。崇めていてはいけないのだ。


――森と生きるとはそういうこと。


 誰かが悪戯に心に言葉を残して行く。


 恐怖を閉じ込められず、どうしようもない思いが溢れ、居ても経ってもいられなくなり、セラはそっと起き出すと納屋のナタと松明を携えて一人森の奥へと向かった。



       ◇



 命の森が命の森と呼ばれる理由。セラは森の回廊を歩きながらその理由に気づき、唇をかみしめた。


 森の学び舎では教師に豊かな森で生命力にあふれているからと教えられ、それを愚かにも信じていた。でも真実はそうじゃない。人の命を吸い上げることによって大樹がその生命力を維持しているからだ。

 何百年も受け継がれてきた命と呪詛の歴史が森にはある。


 真っ黒な森が大きくうごめいた気がした。正体を荒々しく歪ませながら、セラを勢いそのままに飲み込もうとしている。こんな時に限って精霊は出てこない、いて欲しい時にはいつも居ないのだ。

 精霊は弱くて正直。きっと森のうねりに隠れて怯えているに違いない。


「セラ」


 父の声がした。昨日聞いたものより低くておどろおどろしい声だった。父の声にたくさんの声が混じっている。たくさんいる。数えることが出来ないほどたくさんいる。松明を持つ手に自然と力がこもり、引き返したくなるのを堪え必死で歩を進めた。


 闇夜に埋もれそうな回廊をようやく抜けるとひっそりとした大樹の根元の入り口にたどり着いた。見張りは今度は一人で、セラの姿を認めると表情を険しくした。


「セラ、お前何時だと思ってるんだ。こんな場所に」


 そう言いかけて言葉を失う。彼はセラの突き付けたナタに身を震わせた。


「これは木を害するためのものです。でも、通していただけないのらあなたにも容赦はしない」


 真っ直ぐな決意を恐れ、見張りはあからさまな動揺を見せる。


「木を手にかけるだと。何を馬鹿なことを」


 セラは言葉を断ち切るようにナタを振った。刃先が見張りの鼻先をかすめる。見張りは言葉を失い、セラの固い眼差しを見て後ずさりし道を開けた。


「お前は木を見たことがないからそんなことが言えるんだ。木の魔力には誰も逆らえない」

「逆らったことなんてなかったんだろ」


 セラは見張りに一瞥をくれるとエルダーの木の根元へと向かった。




 エルダーの木は森のどこにいても頭頂部が見えるほど背高い。そのことから相当に大きいものであると予想はしていた。長老の記憶でもそれは承知している。けれど間近で見ると畏怖を覚えるほどの巨木で、拙い想像を遥かに超える立派なものだった。


 幹の外周は森の子供たちが手を渡して繋いでも足りるかどうか。

 古いコケに覆い隠された薄茶の幹と茂る深緑の葉は松明で照らすと一層不気味で、まるで意思を持った恐ろしき生物のよう黙している。


 千年の命、泉で見た長老の記憶よりもより一層大きくなっている気がした。


 額を滑る汗は暑さから来るものではなかった。たぶん恐ろしいのだ。生まれて初めて出会った恐怖に戸惑っている。気持ちで負けてはいけないと思うけれど、もうその気持ちすらも負けそうになっている。父を呼ぶことさえも戸惑われて、声が絞り出せない。


 神妙な顔で見上げていると木のくぼみがうごめいて一瞬顔に見えた。気のせいと思ったが、じっと見つめているとだんだんとデコボコが波打って人の顔が浮き上がる。誰の顔であるか判別はつかないが目と鼻と口、それだけは分かった。


「セラ」

「父さん」


 懐かしさに思いが駆けた。


「セラ、やっと会えた」


 セラは声を詰まらせて流れ落ちそうな涙を堪えた。愛しさのあまり幹に触れようと手を伸ばした時、声がした。


「触れてはいけない」


 セラは目を見開く。これも父の声だった。やっと会えたという口で今度は拒絶しようとするのでセラはまた訳が分からなくなった。


「お前は黙っていろ」


 一つと思っていた父の声が二重に割れて、だんだん乖離していく。始めの顔の横に浮き上がってきたのはもう一人の男の顔。面影がある。

 ああこれが間違いなく父だ。懐かしさに浸る間もなく父が声を上げる。


「セラ。今すぐみんなの所へ帰りなさい。この木に近付いてはいけない」


 いつも自分を諭してくれた正しき声には温かさと緊張が混じっている。ずっと恋しかった物だ。セラは縋るように話しかける。


「父さんが呼んだんだろ。それでオレは」

「セラ、近づきなさい。そっと私に歩み寄りなさい」


 始めの顔の男がそっと囁く。乖離した男の声は父のものよりずっと低かった。


「違う、お前は父さんじゃない」


 セラは恐れを感じ、手を引いて後ずさりする。急に懐かしい気持ちが冷めて、恐ろしさが舞い戻った。これ以上近づくべきではない。木の念に巻きこまれてしまう。


 後ずさりしてエルダーの木から離れようとした時、幹が幻夢のごとく横に大きく広がって、セラを飲むように包み込んだ。

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