第一部あなた 第ニ章5

 蓮は束蕗原から届いた薬草に関する本を写すために机の前に座っていた。筆を取ったけど、なかなか紙の上に筆を置く気にならなかった。

 それは、兄の実津瀬の様子がおかしいことが気になっているからだ。

 どうしたのだろう?

 部屋に閉じこもって、舞や笛の練習も休みがちである。

 蓮は実津瀬のことが頭をよぎって筆をすすめることができなかった。

「蓮」

 庇の間から声が掛かって、礼は庇の間に顔を向けた。その実津瀬が立っていた。  

「実津瀬…どうしたの?」

「お父さまが呼んでいるよ」

 父が呼んでいるというのに、蓮は驚いた。それを伝えに来たのが実津瀬であることにも驚いた。

「お父さまが?なんの話かしら…」

 実津瀬は首を傾げた。

「わからない。連を呼んでおいでとだけ言われた」

 蓮は筆を置いて立ち上がった。

「実津瀬……最近は元気ないわね。舞の練習もしないで部屋に閉じこもっているでしょう?」

「……そうね……花の季節で舞の依頼が多くて、少し疲れたのかな……。練習も身が入らない」

 二人で簀子縁を歩きながら話をした。長い簀子縁を歩いて、父の部屋に行くと、そこには父一人が座っていた。

 てっきり母もいると思っていたのだが。

 にっこりと笑う父が口を開いた。

「やあ、蓮。ここに座っておくれよ。実津瀬も、一緒に聞いて。悪いね」

 手招きしてくる父に双子はいつもとは違う感じを受けて気味悪く思いながら、大人しく父の前に座った。

「話は蓮にあるのだけど、実津瀬も聞いておくれ」

 実津瀬と蓮は顔を見合わせてから、父へと顔を向けた。

「蓮、お前は好きな人がいるの?」

 蓮はその言葉を聞いて、しばらく頭の中でぐるぐると考えがまわった。大路で大王に謁見する行列を蹴散らし、束蕗原にいる伊緒理に会いに行ったことは父も知っていることである。なぜに、そのような質問をするのだろうかと、答えに詰まった。

 しばらく経って。

「……いません」

 と答えて下を向いた。

 やっとのことで蓮が返答すると、実津瀬は父の方を見た。

「そうか。であれば、私から蓮に引き合わせたい男がいるのだが」

 父からその言葉を言われて、俯いていた蓮は驚いて目を見開いた顔を父に向けた。

 実津瀬はそんな蓮を見て、その後に再び父へと顔を向けた。

「私の一押しの男だよ。近いうちにここへ呼ぶ用があるから、その時に会ってみないか?」

 蓮は何と答えたらよいかわからず、ポカンとした顔をして父の顔を見つめている、

「無理強いするつもりはない。しかし、私が薦める男だよ。間違いがあるはずはないと自負しているからね。会うだけ会ってみればいいと思う」

 唐突な話で、蓮は首を縦にも横にも振れなかった。

「その男は我が一族においても重要な男だと思うから、実津瀬も会っておいた方がいい。お前ももう位階を受けてもいい歳になっているからね。頼りになる男だよ」

 実津瀬も父がこんな話をしてくるなんて思ってもみなかったから、あっけに取られた。

「正確には明後日に、その男はここに来るからね。心積もりをしておいておくれ」

 話が終わると実津瀬と蓮は父の部屋から退出した。

 自分達の話し声が聞こえないと確信できるほど父の部屋から離れたところで、蓮は誰もない庇の間に実津瀬を引っ張り込み、口を開いた。一生懸命に声を殺して言う。

「実津瀬!どういうこと?お父さまは、私の結婚相手と会わせようということかしら?」

 蓮は両手を両頬に当てて、つっかえつっかえ言葉を発する。

「そう言うことだろうと思うよ。よかったじゃない、有馬王子の妃ではない」

 蓮は実津瀬を睨んで、しばらくして言った。

「どこの誰、とも教えてくれなかったわ。実津瀬は知ってる?」

 実津瀬は蓮に詰め寄られたが、首を横に振った。

「ああ、こんなこと、予想していなかったわ。どういうことかしら……」

 蓮は嬉しいのか不安なのか読み取れない表情をして、右に左に顔を振って慌てている。

「お母さまは知っているかしら。明後日と言っていたけど、着るものだってみすぼらしいものは嫌だわ」

 蓮は我に返ったように呟いて。

「お母さまのところに行ってくる。実津瀬も来る?」

 と尋ねた。

 実津瀬は首を横に振ったので、蓮は落胆したが。

「お母さま、宗清や珊の面倒を見ているか、診療所にいるはずね。ではね」

 蓮は実津瀬を置いてきぼりにして、母を探しに行った。

 

 蓮はすぐに母を見つけることができた。母の自室で預かっている珊に昼寝をさせ、その寝顔を見ていたのだ。

「お母……」

 大きな声で呼んで庇の間に入ったところ、母の膝を枕に珊が昼寝をしているのに気づいて声をひそめた。

「お母さま」

 母の礼は顔を上げて目くばせした。

「ごめんなさい。珊が寝ていると分からなかったわ」

「……よく眠っているから、起きないわ。……どうしたの?」

 母は珊の寝顔を微笑んで見つめていたが、視線を蓮に転じて訊ねた。

 意気込んできたわけだが、蓮はいざとなるとなんと言っていいか言いよどんだ。

「先ほど……お父さまに呼ばれて、好きな人はいるのかと聞かれました。いませんと、答えると私に会わせたい男の人がいると、言われました」

 母は珊の背中を撫ぜながらその無垢な寝顔をしばらく見つめていたが、顔を上げて言った。

「……私も、昨日、蓮に引き合わせたい男の人がいることを聞いたわ。お父さまはとてもその方を気に入っているようで、蓮にとってもすばらしい相手になるとおっしゃっていたわよ」

「……私、伊緒理のことがあります。まだ伊緒理が異国に旅立ってひと月も経っていないのに、そのような気が変わるなんてできるかしら。なんだが……」

「そうね……でも、お父さまが妙に自信に満ちていたから、とてもいい人ではないかしら?蓮にとっては、まだまだ気持ちの切り替えができないかもしれないけど、それはいつになったらなんてわからないことだから、お父さまの言うことに身を任せてみたら。あなたがいやだというのなら、それを無理やり通そうなんてしないと思うわ。私もそれはやめてというから」

 母はそう言うと、また珊に目を戻した。

「蓮が望んだように伊緒理と一緒にいられれば良かったけれど。伊緒理とは一緒にいられないと分かったのだもの、別の人と出会うしかないわね。人の薦めることを受け入れてみるのもいいかもしれないわよ」

 母は珊の口が何かを食べているように動くのを見て、微笑んでいる。

「夢でも見ているのかしらね。おいしいものでも食べているのかしら」

 母は蓮が眉根を寄せて、黙り込んでいるのを見て言った。

「私、実言と一緒になるなんて思わなかったわ。自分の意思などなく、無理やり結婚させられたようなものだったけど、今ではあの人しかいないと思うもの。お父さまが会わせてくれる人は、あなたにとっての最高の人かもしれないわよ」

「……そうかしら……。今はそんな気持ちになれないわ」 

「そうね……蓮の気持ちもわかるわ」

 母はどちらにもつかない。蓮の気持ちも尊重しつつ、父の話を否定しない。

 蓮は話にならないと思って、部屋を出ようとした。

「昨日聞いたから、今から衣装を用意することはできないけど、有馬王子との宴に着た衣装に違う帯を合わせたらいいわね。耳飾りや首飾りはおばあ様から譲り受けたものを着けたらどうかしら。それを着けると大人びて見えるかしらね。相手の方は少し年上だと聞いたから」

 蓮は頷いて庇の間から簀子縁へと出て自分の部屋に戻って行ったが、母が最後に言った言葉が頭の中をめぐっている。

 少し年上ってどれくらい。伊緒理とは五つ違いだったけど、それよりも上ということかしら……。

 蓮は部屋に戻ると衣装を入れた箱の前に座ってどのような男が現れるのか考えた。



 蓮と別れた実津瀬はしばらく自分の部屋の中にいたがやがて簀子縁へ出て、高欄に腰かけて懐から取り出した笛を唇に当てた。

 雑念を入れないように目を閉じて笛を吹き始めたが、脳裏には昨日の雪と会った時の光景が浮かぶ。

 雪に都の東の小さな通りで男と二人で歩いていたのを見たと告げればいいのだ。そして、岩城一族を破滅させたい勢力に加担しているのかと問いただして、何と答えるのか様子を見れば。それからでも、雪との別れを決断するのは遅くない。

 でも、実津瀬は問いただすことをせず別れることを決めたのだった。

 最後、雪の手を離してその場を離れた時、雪はどんなふうだっただろうか。もし、岩城一族を陥れようとしている一味の一員であれば、任務遂行が難しくなって悔しがっているかもしれない。しかし、そんなことは実津瀬の猜疑心が起こす幻想で、事実無根であれば雪は、実津瀬の別れをひどく悲しんだだろうか。

 確かめて、もし後者の表情が浮かんでいたら、実津瀬は自分の決心を貫けなかったと思った。

やはり、稲生達から聞いたことを無碍にできない。もし、雪が敵対勢力の一味であるのなら、警戒し、安全な方へと判断をするべきだ。一族を滅ぼす発端が自分であってはならない。一族が築いてきたものを自分のせいで崩壊させるわけにはいかない。だから、隙を作らないためにもあれこれ聞かずに雪と別れると決めた。

 実津瀬は胸が締め付けられて苦しいのに、笛を吹き続けた。音は乱れてとても聞けたものではない。しかし、実津瀬は吹くことをやめなかった。

 机の前に座って美しく染められた紙を折っていた榧は、兄の笛の音に耳を澄ましていたが、途中からいつもの兄らしからぬ音色になって顔を上げた。簀子縁まで出たところで笛の音は止まった。兄も、これ以上吹いても意味がないと思ってやめたのだと思った。

 こんな、兄様は初めて……。

 榧は夕日で赤く染まる西の空を見上げた。

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