第一部あなた 第一章17
母が束蕗原の去様の邸で使っている部屋に行くと、母と妹弟たち皆が輪になって薬草の取り合いをしていた。これは、母がよくやる遊びであるが、ある薬草の特徴を言って、その薬草は何かを当てる遊びである。小さな宗清と珊が一生懸命に薬草に飛びついている姿が目に飛び込んできた。
蓮が庇の間に入ると、すぐに榧が気付いて蓮の方へ顔を向けた。
「姉さま」
小さな声であるが、皆その声に気づいて、庇の間に目を向けた。みんなの目が集まって蓮はぴたりと立ち止まった。
「姉さま!」
元気な宗清がそう叫んで庇の間まで走り出した。
「お迎えに来てくれたの?」
にこにこと笑って蓮に飛びついてきた。七歳下の弟の頭を撫でて「うん、そうよ」と蓮は答えた。
宗清の後から母の礼が蓮に近づいてきた。
「蓮、よく来てくれたわね」
驚いた様子もなく母がそう言うのを聞いて、蓮は母には自分が束蕗原に来た時に秘かに知らされていたのだと分かった。
「お母さま、姉さまがここに来ることを今まで内緒にしていたの?」
と宗清が言うと、母は言った。
「びっくりさせようと思って黙っていたのよ」
宗清は嬉しそうに笑って、姉さま、よく来てくれましたね、と言った。
「蓮、束蕗原までの長い道中、無事で何よりでした」
母は宗清の肩に手を置いて、蓮に笑いかけた。
母は何もかも知っているのではないかと思うと、自分の惨めな失恋が頭をよぎって涙が出そうになった。
「さあ、もうすぐ夕餉の時間だから部屋の片づけをしましょうかね。榧、宗清と珊と一緒に片付けをしてちょうだい。蓮は私と一緒に去様の部屋に行きましょうね」
蓮は母に言われるままに一緒に部屋を出て、簀子縁を歩いた。
部屋から随分と離れると母は振り向いて言った。
「伊緒理とは話せたの?」
蓮は声なく頷いた。
「そう。あなたには驚きだったかしら、伊緒理が異国に留学してしまうことは……」
蓮はこくりと頷いた。
「これは大変勇敢なことよ。海を渡って異国の知識を得ることは、私たちにとっては有意義なことですもの。それを伊緒理は志願していくの。この国の人民の病気や怪我を治す知識を得るためにね」
それを聞くと蓮は自然と涙が出た。この国のために伊緒理は危険を承知で大海原を渡って留学するのだ。
「しばしのお別れはできた?」
母にそう言われて、蓮は頬を拭った。あれはしばしのお別れというのだろうか……永遠の別れのように思えた。
「夜は去様と伊緒理と食事をとるから、蓮は珊たちの面倒を見てね」
母から言われて蓮は頷いた。
去の前に出て、突然の訪問を詫びた。去は人が突然訪ねて来ようとも大したことではないので、「一人で馬に乗って来たの?よく来られたわね」という感想を言った。それから、蓮は一人で妹弟たちのいる部屋に戻ると、三人がにこにこと笑顔で蓮を迎えてくれた。
「姉さまが来てくれるなんて、思ってもみなかったから嬉しい」
榧が言って、蓮の傍に寄り添った。
「姉さま!」
珊が蓮に向かって走ってきて、その腰に捕まった。蓮は珊の体を受け止めて、その頭を撫でた。
約ひと月ぶりに会う妹弟たちがかわいくて、蓮は自然と顔がほころんだ。
夕餉の膳が運ばれてきて、三人がきちんと食べているかを確認しながら蓮が都に帰っていたひと月ばかりの間の出来事を聞いて楽しく過ごした。
きっと母屋の去の部屋では、伊緒理が異国に旅立つ前の最後の挨拶をしているのだ。そのことが頭の片隅にあったが、珊が掬ったおかゆがこぼれたのが目に入って、伊緒理のことは頭の中から追い出した。
「珊!まあ、濡れてしまったのね。拭いてあげるわ」
蓮は珊の胸に落ちたお粥を拭いてやった。珊は嬉しそうに、笑い顔を蓮に向けて再び椀から粥を掬って口に運んでいる。
それから下の二人を寝かしつけて、榧におやすみの挨拶をすると、蓮は一人用意された部屋で衾を被った。気持ちは冴え冴えとしているのに、馬で都から走ってきた疲れで、目を瞑った途端に泥沼に沈むように眠りに落ちてしまった。
被った衾から蓮は顔を出した。
朝の光が眩しくて、目を開けようにもすぐには開けられなかった。
そして、こんなに陽が高くなるまで寝ていたのだと知った。上半身を起こすと、庇の間にこの邸の侍女が現れた。
「お目覚めはいかがです?」
問われて、蓮は頷いた。
「悪くない……と思うわ」
侍女は、部屋の隅に置いていた水差しから水を入れた椀を蓮に差し出した。
蓮は受け取って水を流し込み、喉を潤わせた。
「……お母さまたちは……」
「薬草園で一仕事されて今から朝餉を取られます」
そして、本当はこれが一番聞きたかったことだが。
「伊緒理はどうしてる?」
「伊緒理様は……夜明けとともに都に帰られましたわ」
「……そう……寝坊をしてごめんなさい。すぐに起きます。お母さまたちの部屋で朝餉をいただくわ」
蓮はすぐに起き上がって、身支度をして母の部屋に行った。
妹弟たちが一斉に蓮を見て、蓮は恥ずかしくなった。
「姉さま、遅いよ!もうお天道様は高く上がっています」
宗清に言われて、蓮は頭をかいた。
「そうね、お寝坊ね。ごめんなさい」
蓮はそう言って謝ると。
「いいよ、僕も起きないことがあるからね」
と宗清は返した。
蓮は榧と宗清の隣に座って朝餉の膳をいただく。小さな子たちは朝から元気で、楽しい食事になった。
食事が終わると宗清と珊はじっとしていられずに、庇の間に飛び出して行った。
侍女たちが膳を下げるのを手伝っていると母の礼が手招きしてきた。何を言われるのだろうと近寄ると。
「明日、私たちは都の邸に帰るのよ。だから、あなたも明日私たちと一緒に帰りましょう」
「え、明日?……お父さまは何もおっしゃっていませんでした」
「都に伝達の馬を飛ばした日の翌日にあなたが来たから、伝えそびれたのかもしれないわ。でも、よかった。行きしなと同じように蓮がいてくれて、心強い」
母はそう言って笑った。
「姉さま、遊ぼう!」
宗清が手招きしている。蓮は母に一礼して、宗清と珊がいる簀子縁に榧と一緒に出て行った。
庭に出ると樹の陰に男が立っているのが見えた。鋳流巳である。蓮が立ち止まると鋳流巳が近寄ってきた。
「鋳流巳……私を追って来てくれたの」
鋳流巳は頷いただけだ。
蓮が邸を一人飛び出して行って、邸の中が大慌てになったことは想像できた。邸の中にはお父さまも実津瀬もいなかったから、誰にこのことを伝えたらいいかもすぐにはわからなかっただろう。しかし、誰が追わなければならず蓮の外出にはいつも付き添う鋳流巳が追うことになったようだ。
「面倒を掛けたわね……」
蓮はそう言って、妹弟たちの元に戻った。
宗清と珊は明日ここを発つため、最後まで遊びつくそうと庭を駆けまわった。そのうち、邸の使用人の子供たちが朝の仕事を終えてやってきた。こうして遊ぶのも最後だからと大勢の子供が樹の周りをぐるぐると走って追いかけっこを始めた。
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