第一部あなた 第一章16

 蓮は夕餉を食べ終わるとすぐに褥に横になったが、目を瞑っても眠ることはできなかった。やっと眠っても、夜明けとともに目が覚めて、邸の一画にある薬草園に向かった。母の礼がいなくても束蕗原から来ている去の弟子たちが薬草園の管理をしているから蓮が何かすることはなった。それでも、いつものように起きて皆がするように薬草園に出て、葉を摘む作業を手伝った。無心でする作業は蓮を一時落ち着かせた。

 うっすらと額に汗をかくほどに夢中になって薬草を摘み終わると、朝餉の時間になった。自分の部屋で手早く朝餉を取ると出かける準備をした。

 そよ行きの衣装に着替える蓮に侍女の曜は何をするのかと問いかけた。

「少し外出。一人でも大丈夫よ」

 そう言って部屋を出て行った。お待ちください!という曜の声など耳に入らないように蓮は階を降りて沓を履き裏門から出て行った。

 蓮がこれから向かおうとしている先は、伊緒理の邸である。

 前に伊緒理のために写した本を持参した時が最後と決めたが、昨日、伊緒理が外国に留学することを聞いて気持ちは変わった。

 伊緒理に会いたい。

 伊緒理に会って、留学のことを問いただしたい。別にダメだと言いたいわけではないのだ。なぜ、自分に言ってくれなかったのかということだ。

 蓮は最後に写した本を届けに行った道を歩いていた。そうすると、いきなり後ろから左腕を掴まれた。驚いて振り返ると、鋳流巳が大粒の汗を額から流して蓮を見下ろしていた。

「……はぁはぁ……蓮……さま……はぁ……」

「……鋳流巳……」

 鋳流巳の息が整うまで蓮は待った。

「曜に言われて追って来てくれたのね。そんなに息を切らせて……」

 鋳流巳が顔を上げると蓮は言った。

「でも、私の気持ちは変わらないわ。私の行きたいところに行っていいかしら。あなたには申し訳ないけれど」

 鋳流巳にいいも悪いも応えることはできない。そんな鋳流巳の表情を読み取って、蓮は再び歩き始めた。鋳流巳は黙って蓮の後ろをついて行く。

 蓮がどこに行こうとしているのかは、わかっている。蓮が一人で邸を出て行ったと、曜が実津瀬の部屋に駆け込んだ。すぐに実津瀬は伊緒理の邸に向かったと判断して、鋳流巳に追わせたのだった。

 蓮は伊緒理の邸に着くと門をくぐって、訪いを入れた。

 出てきたいつもの舎人は申し訳なさそうな顔をして告げた。

「あいにく伊緒理様は今朝早くに束蕗原に向かわれました」

 あっけに取られた蓮は、呆けた顔で舎人を見つめたが、ここにいても伊緒理が帰ってくるわけではないと、挨拶をしてすぐに門を出た。

「蓮様……」

「徒労みたい。鋳流巳には申し訳ないことをしたわね……」

 蓮は肩を落として、邸に帰った。

 邸には父の実言も兄も実津瀬も宮廷に行ってしまって誰もいない。

 蓮は自室の机の前に座って、じっと考えた。

 束蕗原にはまだ母や妹弟たちもいる。

 伊緒理は後数日には都を出て、船に乗ってまずは筑紫へと行ってしまう。そして大きな船に乗って大海原に乗り出して行ってしまうのだ。その前に去様に会いに行ったのだろう。

 都にはいつ帰ってくるのだろう。帰ってきても出発する準備で邸に行っても相手にしてくれないかもしれない。

 それならば……

 蓮は立ち上がった。

「蓮様!どちらに!」

 侍女の曜は鋭く声を張り上げた。

「厠よ……」

 蓮は言って、邸の奥へと向かった。曜はそれでも蓮の後ろをついて行った。

「……心配いらないのに…」

 厠の中までついてきそうな曜に蓮はため息をついてあきれ顔で言った。

 それでも曜は簀子縁で蓮が戻って来るのを待っていた。

 ……それにしても遅いわね……。蓮の戻りが遅いと思って曜がしびれを切らして、本当に厠の中に入ってくる頃、蓮は庭に下りて厩の中に飛び込んでいた。

「その馬をどうするの?」

 丁度、鞍を載せた馬を引いている男に蓮は訊ねた。

「これは今から旦那様のお使いで笠丸様が西の市まで行くのに使う馬です」

「では、それを先に私に回してちょうだい。笠丸には別の馬を用意してあげて」

 そう言って、蓮は男から手綱を奪った。

「馬に乗るのを手伝って!笠丸よりも私の用事の方が急を要するのよ!」

 蓮は跪いた男の膝に乗ってから左足を鐙に乗せて、軽い体をひらりと馬の上と上げた。

 手綱を握り、馬を前に進めたところで。

「……蓮様!蓮様!どちらへ‼」

 はたと我に返った厩の男たちは我が主のうら若き娘が供らしき者を一人も連れずに馬に乗って飛び出していった重大さに気づき、大きな声を上げた。

 その時には、蓮は門を飛び出していた。

 お父様と一緒に束蕗原から都に帰ってきてよかった。こんなことのためにそれが役立つなんて思ってみなかった。

 何度も通っている束蕗原だが、いつも車を使っていて馬に乗って行ったことはなかった。だから、蓮は父と一緒に帰って来た時の経験が今の自信になっている。

 あと数日後には異国へと旅立つ伊緒理。都に帰って来るのを待とうかと思ったが、知った束蕗原にいるのならいっそそちらまで追って行こうという気になった。まだ日は高く、馬でなら日が暮れるまでに束蕗原に着けると思った。

 蓮は邸を勢いよく飛び出してはみたものの、どちらが束蕗原に向かうために近い門があるかがわからなくて、馬の頭をどちらに向けていいかわからなった。とりあえずといった形で、門を出てから南にそれから角を西に曲がったが、それは大きな間違いだった。

 駆けて行くと、やがて都の中心を南北に通る大路にぶつかった。

 大路なんかを抜けるのは正しい道ではない!と蓮は気づき、引き返そうかと思ったが、邸から追いかけてくる者たちがいたらまずいと思い、そのまま大路に出て、道を北に上がって、また北東の方角に向かう道へと入ることを考えた。

 大路に飛び出したら、そこには正装した行列が宮廷の南門に向かって進んでいるところだった。大路を往来していた都人は皆両側の壁際に退いてその行列を見送っていると、一等の馬が飛び込んできたのだった。

 わぁ、という驚きの声、歓声、怒声が入り混じる中で蓮は飛び込んではいけない場所に自分は飛び込んだのだと悟った。視野が狭くなって大路の状況が見えなかった。

 常時馬に乗っているわけではないので、人に驚いた馬を操るのも難しく、蓮は馬の首を北に向けると思った通りに一旦北に行きそこから東北に向かう道に行くと決めた。

 この行列は、近々外国に向かう船に乗る船員やその船に乗って帰る外国人が大王に謁見するために宮廷に向かっている列だった。行列を案内、警護するのに貴族や宮廷の役人がついており、馬ごとの行列に飛び込んできた無礼な女人を仰ぎ見ていた。

 その中には、岩城の邸に出入りしている者があり、あの女人は岩城実言の娘ではないかと声が上がった。

 なぜ、このように列を乱してまで駆けて行く必要があるのだろうか。皆は訝しがったが、後にこれは様々な推測を呼び面白おかしく話されて、謝った噂話になった。それは、蓮のその後の縁談相手に少しの引っ掛かりを作ることになる。

 蓮にだって正装をした行列がどこの誰に会いに行くのかはわかっている。その列に突っ込んでしまったら、どのようなお叱りがあるか。お父さまに迷惑をかけてしまうかもしれない。そんな考えが当然よぎったが、それでも今は束蕗原に行くのだ。その後でどのようなお叱りでも受けよう。

都で待って、伊緒理の邸を訪ねていっても会ってくれないかもしれない。やはり、会うのなら束蕗原は絶好の場所と思えたからだ。

 都を出たら束蕗原へ行く道の目印はわかっている。蓮は一度も馬を休ませることなく、束蕗原まで駆け抜けた。

 束蕗原の去邸の門まで一気に潜り抜けた。そのまま厩まで行くと、後ろから門番が追いかけてきていた。

「あれ!蓮様じゃないですか?……今日、こちらにお見えの予定で?」

 よく知った門番は蓮とわかると、不思議そうに尋ねたが、蓮はそれに答えることはなく馬から飛び降りると手綱を門番に渡した。

「この子にお水をたくさんやってちょうだい。本当に無理をさせてしまったから、お願いね!」

 蓮は母屋の去や母がいるであろう離れにはいかずに、そのまま伊緒理がいつも束蕗原に来たら滞在している別の離れの部屋に向かった。庭を通ってその館の階の下まで走って行くと、蓮は息を切らしながらその人の名を呼んだ。

「……伊……伊緒理……伊緒理!」

 蓮は息を整えてもう一度しっかりとその名を呼ぼうと思った。

 机に向かって去から渡された本を読んでいた伊緒理は急に自分の名前を呼ぶ声がして、顔を上げた。

 その声はよく知った声だけど……ここにはいないはずの人である。

「……伊緒理!」

 もう一度、名を呼ばれて伊緒理は立ち上がって簀子縁まで出て行った。

 まさか……ここに…… 

 伊緒理は、階の下で両ひざをついて息を切らせている蓮を見つけた。

「……蓮!」

 歩けない様子の蓮に、伊緒理はすぐに階を駆け下りて蓮の体を支えた。

「どうしてここに?」

 蓮は息を整えて、行った。

「……数日前に正装したあなたが宮廷の回廊を歩いているのを見たの……。なぜか聞いたわ…」

 そう言った声の最後が震えて、蓮は一旦口をつむった。

「……部屋に入ろう。そんなに息を切らせて……。水を飲んだ方がいい」

 伊緒理は蓮の体を支えて部屋の真ん中に連れてくると、箱の中の水差しから水を注いだ椀を蓮に差し出した。蓮は受け取り、一気に飲み干した。

「落ち着いたかい?……蓮……都から来たの、私を追って……」

「……そうよ。伊緒理が海を渡って異国に行ってしまうと聞いたから、私はあなたに会わないと決めたけど、このまま会わないのは嫌だと思ったの。だって、危険を承知で大海原を渡っていくのでしょう。無事につけるのか、着いてもいつ帰って来られるかもわからない……。私……堪えられないもの」

 蓮は隣に座った伊緒理の袖を掴んで じっと見つめた。

 蓮の瞳をまっすぐに見つめ返す伊緒理は、出航前の忙しさで少しやつれたような風貌だ。でも、蓮の好きな男である。長い髪を上にあげて一つに結って、その下にある顔の眉は凛々しく横に伸びて、その下の目は少し眦(まなじり)を下げて優しい眼差し。その反面、頬はこれからの苦難を表わしているかのように、前にもましてそぎ落とされたようにこけていて厳しい表情である。

私とこの先を一緒に歩むと言ってくれたらいいのに。いつまでも、私は待っていたのに。あなたの邪魔などする気はないのに。

 正対した蓮の大きな目が潤んでいるのを、成す術もなく伊緒理は見つめていた。

 すると、蓮が体を前に出して自分へと近づいてきた。

 腰を浮かした蓮は、伊緒理を見つめたまま、その顔を伊緒理に近づけた。

 伊緒理は蓮が何をしようとしているのかわからず近づく顔を見ていたら、それはあっという間だった。

 蓮は袖から襟に手の位置をかえて、伊緒理を捕まえると自分の唇を伊緒理のそれに重ねた。

 唇と唇がそっと合わさった。

 蓮には初めてのことではあるが、それが愛する者を求める証であることは知っていた。蓮は伊緒理から離れまいと唇を押し付けたら、逆に強い力で吸われた。

 蓮は驚きと共に、身が崩れ落ちるような衝撃を受けたが、その力はすぐに小さくなって、伊緒理の手が前に突き出されて蓮の体を遠ざけると唇も離れた。

「……だめだ、蓮。やめてくれ……」

 伊緒理はそう言って、蓮から顔をそむけた。

「……伊緒理が命を懸けて行くのですもの、私はその成功を祈っている。……だけど、伊緒理を忘れたくないの。私の心も、この体にも」

 蓮は真っすぐに伊緒理を見つめて言った。

「伊緒理……私を抱いて……都を離れる前に……私の心の中だけなんて嫌」

 伊緒理はゆっくりとそむけた顔を蓮に向けた。

「……蓮、きみが私を思ってくれていることは嬉しいよ。だけど、一時の熱情で言ってはだめだ。君は岩城家の娘だ。岩城実言の娘なのだから、それに見合ったものを手に入れないとだめだ。将来のきみを大事にしないといけないのだから」

 伊緒理は蓮の体を押して、一定の距離を保とうとするが、蓮の気持ちが体に表れて伊緒理の手のひらを押し戻す。

「ううん、今だって将来の私だってこの気持ちは変わらないわ。変わらないもの」

 蓮は腰から体を持ち上げて、再び伊緒理に体当たりするように迫った。伊緒理は思いのほか蓮の勢いに態勢を崩して後ろに倒れた。蓮はそのまま伊緒理の上に覆いかぶさるように、両手をついて伊緒理を見下ろした。

「蓮!……きみに私の気持ちはわからない…………やめてくれ、こんなことは」

 伊緒理は語気を強めて少し大きな声を出した。

 蓮はその声で伊緒理に覆いかぶさって抱いてくれと言っている今の自分の姿に我に返った。そして、都から馬を飛ばし、大王に謁見する行列を蹴飛ばしてまでここに来た自分の気持ちは伊緒理に完全に拒絶されたのだと分かった。

 蓮の目の縁にはみるみる涙が集まってきて溢れた。そして、それは落ちて伊緒理の頬についた。一粒……二粒……と。

「蓮、ここにいてはいけない。礼様の部屋に行くんだ」

 伊緒理に言われて、蓮は伊緒理の体の横についた自分の手を上げて体を起こした。そして、立ち上がるともう伊緒理を見ることなく庇の間へと歩き出した。

 伊緒理から最後に何か言われるのではないか、と期待した。しかし、伊緒理は身動きする気配もなく、声も発せられないまま、蓮は簀子縁に出た。

 二度も振られるなんて、なんて惨めなのだろう、と蓮は思った。それも、二度目は酷い振られ方だ……。

 もう日が落ちた。向こうの山が少し白いが、空はもう暗く、星が見える。

 袖で頬を拭った。

 もう邸では私がここに来たことは知れているかしら。知れているなら、伊緒理のいるこの部屋に誰も来ないのはなぜ……。知れていないのなら、みんなどんな顔をするのかしら。

 いずれにせよ、お母さまのところに行かなくては……。去様にもご挨拶しなくてはいけない。

 蓮はのろのろと簀子縁から母屋への渡り廊下に進んだ。

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