第一部あなた 第一章15

 約束の日に雪は椿の樹の影に隠れて待っていた。

「待たせたかな?」

 実津瀬が椿の樹の影に周って雪を見つけて言った。

 雪は顔を上げて、すぐに顔を綻ばせた。

「いいえ」

 雪は答えた。

 前回、偶然この石畳の回廊で会って、お互いの気持ちを再び確かめあった時、実津瀬は会えなくても次に会えればいいと言ってくれた。待っていればいつか会えるのだと、待つことの結果を教えてくれて安心した。

 こんなに頼もしいことを言ってくださるなんて……と雪はその時、心から嬉しさが込み上げてきたのだった。

「仕事は忙しいの?」

「……これから忙しくなりそうです。春になると小さな宴や集まりが増えますから。お妃さまたちからも梅が咲き始めたら、集まりのための準備をするように指示がありました」

「……でも、私は時間がある限りあなたと会いたい。こうして、庭を歩いて話すだけでもいいんだ」

 実津瀬は言った。

「まあ、ありがたいお言葉。……でも、今日は時間が……あります……」

 と最後は消え入りそうな声で雪は答えた。

 それを聞くと、実津瀬は雪の手を握って、庭の奥へと向かった。前は雪に先導された道を今は実津瀬が引いている。

 入れ替わりで使用人たちが使っている館の空いている部屋を探して入ると、どちらからともなく抱き合った。

 ここまでの道すがら前回に会って以降のお互いの日常に起こった面白いことや感心したことなどを話してきただけに、部屋に入ると急に何を話していいかわからなくなった。

 いや、抱き合っているのだから言葉を発しなくてもよいのだ。

 実津瀬は顔を上げた雪の唇を吸った。雪と出会ってから何回目の接吻だろうか。未熟な自分も唇を合わせることの経験を少しばかり積めていると思った。

「……はぁ」 

 唇を離すと、雪はため息をついた。

 でも、実津瀬の動きは休むことなく雪の腰の帯に手を掛けて解いた。次に雪は逆襲とばかりに実津瀬の帯に手を掛けた。実津瀬は声なく笑い顔になって雪のするままに帯を解かれた。それからは、緩んだ衣服の合わせ目から手を入れて、お互いの素肌に触れた。

 雪の温かい肌に触ると、実津瀬は興奮して雪の上衣を脱がせた。

 前に見たのと変わらない白い肌が眩しい。雪によって寛げられた裸の胸に雪の肌を押し付けるようにして抱いた。

「……私は、あなたの魅力に取りつかれて、寝ても覚めてもあなたのことばかり…」

 実津瀬は言って、雪の体をまさぐった。

 雪は実津瀬の手に触れられてその力の強いことに、少しばかり声を上げた。

「ああ、痛い?」

 実津瀬は訊ねると、雪は上げた声とは裏腹に首を振った。

「私は逃げませんから、ゆっくりと触ってくださいな。実津瀬様の温かな手が心地よいですわ」 

 雪は言って、実津瀬の右手を取ると自分の左乳房の上に置いた。

 こんなことをしていたら、いつか雪は孕んでしまう。しかし、そうなったときには雪を我が妻にしようと実津瀬は覚悟を決めていた。身分違いと言われても、好きなのだからしょうがない。何を言われてもいいと思った。

 裸にした雪を胡坐をかいた自分の足の上に乗せて、ゆっくりとその肌に触れ、体を一つに合わせた。雪の吐息を吸うように実津瀬は雪の唇を塞いだ。

 雪との逢瀬は続いた。空いている使用人の部屋で体を重ね、時間がなければ庭を歩いた。季節の美しい花を眺めて、お互いの日常の思ったこと感じたことを話した。

 それは、実津瀬の心を躍らせ、安らぎを与えてくれる時間になった。



 梅が咲き誇る時期を見計らって、有馬王子の梅を見る宴が催された。

 有馬王子が主催と言っても、母親である碧妃の力が大きい。いや、岩城一族の力と言ってよいかもしれない。有馬王子の母は岩城一族の出身である。何か入用だと言えば岩城本家に援助を求める。この宴も例外ではない。

 病弱である兄の現大王の香奈益大王は、その体の弱さ故にか、子供がいない。多くの妃が嫁しているが今だ一人も子は生せていない。このまま王子ができないと、次の大王になるのは弟の有馬王子になる。

 大王と有馬王子の間に先代王とある妃との間に産まれた王子がいたが、岩城実言がその王子は先代王の弟の子であることを暴き、王子は母親とともにその地位を追われたため、有馬王子は争うことをせずに次期大王の座に近づいた。

 とても近い未来に大王の座に就く有馬王子に、皆の注目は集まる。機会があればその人との繋がりを持ちたいと、今日も多くの貴族や有力豪族の子女が集まった。

 岩城家は労せずしていち早く有馬王子の傍に着くことができ、会話を楽しんだ。有馬王子は宮廷内で家庭教師に学問を教わっているが、たまに実津瀬たちが学んでいる塾に来て、講義を聴くことがある。だから、実津瀬と稲生は塾での講義の話などをして、蓮や藍とは美しい花の話をした。

「今、母の住む館の庭は梅はもちろんのこと他の花も咲いていて、見事なものだ。母が梅見と称して小さな集まりをすると言っていたから、あなたたちも来たらいい。母に言っておくよ。母は岩城の人と会って話をするのが好きだから。今日も岩城から人が来るのか、来ていたらよろしく伝えてと言われていてね」

 有馬王子の言葉に招かれることは光栄なことと、蓮と藍は喜びを口にした。

 実津瀬と蓮たちの後ろにはこれから有馬王子と話をしようと待っている男女が列をなしている。四人は後ろの者に有馬王子を譲って、王宮の庭を散策した。途中、実津瀬と稲生は塾の友人たちを見つけて話をした。蓮と藍は梅の木に時折鶯が飛んで来る姿を見て、その鳴き声に耳を澄ました。

 有馬王子との懇談が終わった者たちが、広い庭に押し出される形になって人が溢れて、十分に庭を堪能した実津瀬たちは追い出されるようにして、王宮の庭を退出することにした。

 もう邸に帰ろうかと宮廷の中を歩いていると、蓮は大極殿に続く回廊を歩く一団に目がいった。正式な装束に身を纏った男たちが先導する官吏に案内されているところだった。

 王宮はもとより、宮廷の中にはいることもない蓮にとっては、見るもの全てが物珍しく、通り過ぎる風景を目で追っていると、その列の四番目の男に目がいった。

 釘付けになったと言ってもいい。

 あれは、伊緒理……。

 どうして、宮廷なんかに。それも正装で。

 自分は政には向かない男だから父を失望させているだろう、と言っていたのに、なぜ…。

 蓮は不思議に思いながら、実津瀬の袖を引いた。

 実津瀬は気づいて蓮に近寄って耳を傾けた。

「先ほど、回廊を歩いている人の中に伊緒理によく似た人を見たのよ。伊緒理がいるはずないのにね」

 すると、実津瀬は立ち止まった。蓮もそれに倣って立ち止まる。

「……多分、伊緒理だよ」

「え?どうして?」

 蓮は目を丸くして実津瀬に訊き返した。

「昨夜、お父様から聞いたのだけど、伊緒理は外国に留学するそうだ。医術の勉強をするために。今日は留学する人が大王に謁見する儀式があるそうだから、きっとそれだと思う」

 蓮は聞いた直後は一瞬黙っていたが、すぐに口を開いて実津瀬に食って掛かった。

「どうして教えてくれないの?伊緒理が留学するなんて!」

「今日話そうと思っていたよ。この会が終わればね。昨夜遅くに聞いたから」

「外国って、船で海を渡っていくのでしょう?帰ってくるのはいつ?」

「そうだよ、船に乗って陸など見えない海原を何日も行くらしい。時には海が荒れてその中に投げ出されてしまうようなこともあるようだ。しかし、危険は承知で留学されるんだよ。そして、自分はもうよく学んだと思われたときに戻って来るそうだ。だから、いつ帰るのかはわからない」

「……海に投げ出されてしまう……。いつ帰ってくるかわからないなんて…そんな」

 蓮は下を向いて小さな声で言った。

「伊緒理が決めたことだよ。……伊緒理は自分の夢に向かって大きな一歩を踏み出そうとしているのだ。私たちは伊緒理の前途を応援するしかない」

 ええ、わかっているわ……。私はいつだって伊緒理を応援してきた……本を写すのも伊緒理を応援するため……留学だって行かないでなんて言わないわ……。

 前を歩いていた稲生と藍が実津瀬と蓮がついて来ていないことに気づいて、こちらを振り向いて窺っている。

 見ても分かるほどにがっくりと肩を落とした蓮の肩を抱いて、実津瀬は稲生達の元にむかった。

「蓮、どうしたの?」

 藍が声を掛けた。

「……何でもないよ」

 実津瀬が答えた後、蓮も何でもない、と小さな声で答えた。

 四人は歩いて宮廷から出るために門の方へ歩いていく途中、実津瀬は倉の陰に人がいるのが見えた。それが男女の姿だったため、あまり凝視してもいけないと目をそらそうとしたが、そうはできなくなった。

 それは、こちらを向いている女人がよく知った顔だったからだ。

 雪?……男と……。

 男は背を向けていて顔が見えない。何を話しているのだろうか。雪の口は引き結ばれたままだから、男が話していることを聞いているだけのようだ。男の話声は実津瀬には聞こえない。男は雪の手を取って、両手で握った。それから手を放すと片方の手を雪の肩に回した。

「実津瀬、どうしたの?」

 振り返っている実津瀬に、蓮が気付いて尋ねた。

「…………ううん」

 雪の手を握る男は何者だろうか。雪も嫌がる素振りはせず、男の手に従って下を向いていた。

「……何でもないよ」

 実津瀬は前を向いて答えた。

 それからの実津瀬と蓮は押し黙っている。本家の稲生と藍は訝しがりながらも何があったとは聞かず、本家の邸の前で別れた。肩を並べて歩く実津瀬と蓮は邸の門をくぐっても無言のままだった。お互い、自分の気がかりなこと気が向いて相手のことまで思いが至らなかった。

 邸に戻ると、帰って来たことを聞きつけた父親の実言が実津瀬の部屋までやってきた。

「どうだった?有馬王子はお元気そうだったかい?」

 父親がいそいそと部屋に出向いて尋ねているが、二人は下を向いてぼそぼそと受け答えをした。

「どうしたの?嫌なことでもあったの?」

 父親はそう聞いたが、二人は首を振って有馬王子ともたくさん話ができたし、とても美しい庭を堪能した。蓮はそのうち有馬王子の母上である碧妃の住まいに招かれるかもしれないと報告した。

「そう、それは良かった」

 実言はそう返したが、我が子は暗い顔をして部屋で寛ぎたいからと、にべもない言葉で部屋を追い出される格好になった。

 実津瀬も蓮も自分の部屋の円座に座って、宮廷で見た光景を思い出していた。

 あれはどういうことだろうか?

 雪は……

 伊緒理は……

 二人はそれぞれに悩みを抱え込んだ。

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