第7章  2013年 プラス50 – 始まりから50年後 〜 2 すべては、書庫と日記から……(5)

 2 すべては、書庫と日記から……(5)

 



 その中の一つが、これまで耳にしたことのない日付の羅列だ。きっと誕生日なのだろう。

 大正六年 五月五日。

 大正十年、四月八日。

 昭和四年、六月二十八日。

 昭和二十二年、八月二十八日。

 大正六年と十年というのは、きっと節子の両親だ。そしてその横、昭和四年、六月二十八日と書き込まれたその次に、昭和二十二年八月二十八日とも書かれている。

 昭和四年六月の方は、紛れもなく節子の誕生日なのだ。

 それでは昭和二十二年って方は、いったい誰の誕生日か?

 剛志が生まれたのも昭和二十二年だが、彼の場合は五月生まれだ。それにこの世界では、昭和二年生まれってことになるからどっちにしたって違うだろう。

 正直、記憶喪失だなんて言い出した手前、節子にもほとんど昔のことを尋ねていない。

 もちろん戦争中の空襲で、一瞬にして天涯孤独になったのは知っている。しかしそんな話も遥か昔に聞いたことで、それ以降、その手の話は一度だってしていないのだ。

 それでも剛志は聞いていた。八月二十八日生まれの人物について、彼が思い出すのはそれからすぐのことだった。


 ――どうして、こんな大事なことを忘れていたんだ……?

 そう思って愕然とするのは、やはり日記にあったひと言によってだ。

『あの子は今頃、生きているのか、死んでいるのか?』

 たったそれだけだったが、目にした瞬間、欠落していた記憶が一気に舞い戻っていた。

 まさしく終戦直後、岩倉節子は未婚のまま赤ん坊を授かったのだ。彼女は乳飲み子を一人抱えて奮闘するが、ある日とうとう我が子を手放す決意をする。さらに施設に預けて三年くらいが過ぎた頃、節子は再び施設を訪れ、無理やり娘の養子先を聞き出した。

「正直に言うとね、最初はなんとしてでも連れて帰ろうって思ってたんです。でも、このままの方があの子のためになるなって、心の底から思えちゃって、だから、そのまま……逃げるようにその場を離れました……」

 そう告白していた節子は、その後一度も娘と会っていないはずだった。

 その子が昭和二十二年生まれなら、今年でもう六十二歳という年齢だ。だからって死んでなどいないと思うが、そのくらい何もわからないということだろう。

 節子は確かに言ったのだ。大きな庭で、若い夫婦が祖父母と一緒に娘のことを眺めていたと。

 ――やっぱりその娘ってのが、桐島、智子だってこともある?

 智子も剛志と同じ昭和二十二年生まれだ。誕生日までは覚えてないが、彼女も節子の娘と同じ養子だった。さらにシーソーのことはさて置いて、

 ――智子の家にも、かなり大きい庭はあった……。

 節子が智子の母親なら、本当にそうならさっきの言葉だって不思議じゃなくなる。

 あの時、「なあ、節子……」と言って、剛志は節子に話しかけた。すると微かに知性が舞い戻ったか、節子がいきなりこう言ったのだ。

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