第5章  1973年 プラス10 - 始まりから10年後 〜 2 岩倉節子(4)

 2 岩倉節子(4)




 昭和四年生まれ……ということだから、今年で四十四歳だ。

 東京大空襲の日、気がつけば焼け野原にたった一人で立っていたらしい。それからずっと、彼女はたった一人であの戦後を生き抜いたのだ。

 実際、戦後生まれである剛志には、到底及びもつかない苦労だってあっただろう。もしかしたら、不思議なくらい厚塗りの化粧は、そんな過去の生き様からきているのかもしれない。

 ただなんにせよ、剛志はそんな時代をまったく知らない。

「昭和二十年にあった大空襲の時って、名井さん、東京のどの辺りにいらしたの?」

 なんてことを尋ねられても、生まれてないから答えたくても答えようがなかった。下手な場所を告げて、「そこは火の海だったでしょう」なんて返されれば、きっと生き残れた理由まで話すことになるかもしれない。

 お互い、四十四歳と四十六歳という二歳違いだ。

 本当なら共通する体験も多いだろうし、特に終戦直後、当時のことは、絶好の話題となるはずだ。ところが剛志にとってはその手の話が一番困る。

「病院食なんて、今の人にはきっと美味しくないんでしょうけど、闇市の時代を知っている世代には、今の食べ物なんて、なんだって美味しいって思えるわよね」

 わたしたちの世代なら……きっとそうだと言いたいのだろう。

 それからさらに、闇市シチューは怖かったとか、それでも代用うどんは美味しかったなどと言われて、笑って頷く以外にどうしようもないのだ。

「あれって、進駐軍の残飯を煮込んだものって聞いてたから、そんなもの絶対に食べないって思ってたの。でもね、本当に何日も食べてなくて、そんな日に偶然出会った人に言われたのね。どんなことがあっても生きなきゃダメだって。そうしないと、この日本を救うため、遠い異国の地で死んでいった人たちに申し訳が立たないだろうって、真剣な顔で怒られたわ。その人と出会っていなければ、わたしはきっと、どこかで野たれ死にしていたと思うの。それからその人、グイグイわたしの手を引っ張って、どこかの闇市に連れて行ってくれたわ。そこで、さ、食べなさいって出されたのが残飯のシチューだった。あれね、残飯だけじゃないのよ。煙草の吸殻なんてマシな方、ちょっと口に出せないものだって入ってたりするんだからね。もう、本当にあの頃の日本人は、奴隷みたいなものだったのよね……白人さんたちの……。ああ、やだやだ……」

 その時、隣で同じものを食べていた勤め人風の男性が、いきなり「ウッ」と声をあげ、慌てて指先を口の中に突っ込んだという。

そして口から引っ張り出したのが、後になって考えれば使用済みのコンドームだったという〝オチ〟だ。

「その頃のわたしはそんなもの知らないし、へえ、風船まで入ってるんだ、くらいに思っていたのね。その人、それを道に叩きつけてね、それで、じっとおわんの中を見つめているの。脂っこくて、底に残っているドロドロっとしたのをしばらく見つめて、それでも、また勢いよく食べ始めたわ。きっとね、いろんなことを考えたのよね。でも、結局は食べたのよ。食べてこの日本を立て直すんだって、きっとそんなことを考えたんだと思う。だって、泣いてたのよ。その人は泣きながら、くそっくそって、小さな声で言って、それでも必死に、ドロドロしたシチューを一生懸命食べてたわ」

 そんな姿を目の当たりにして、彼女は残飯シチューを残さず食べると決めたのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る