第4章 1963年 - すべての始まり 〜 6 剛志の勝負
6 剛志の勝負
すでに八月が終わりを告げようとしていた。それなのに、夏は去りそうな気配を見せずに、夕方になっても優に三十度以上はありそうだった。
あれから、二子玉川にある旅館に一週間ほど世話になって、その間に名井良明として住民票も手に入れた。アパートは児玉亭から少しばかり遠かったが、逆にあの林にかなり近く、急坂のすぐそばというところにあった。
事件については、以前経験した通り、何もかもが闇のままで何の進展も見られない。事件のあった現場も今や自由に行き来できるが、以前のような人通りはなくなっていた。
ただその代わりに、若い剛志がやたらと現れるようになったのだ。
そうなると徐々に、児玉亭の息子がウロウロしている――そんな噂が囁かれ、名井良明となった剛志の耳にもあっという間に届くのだ。
児玉亭で呑んでいると、隣の客がヒソヒソ話しているのを耳にする。その瞬間、すうっと身体が沈んでいくような感じがして、自分でも信じられないくらいのショックを受けた。
あの頃は、ただただ必死に智子の行方を探しただけだ。そんな彼を恐怖の目で見つめ、てんで的外れな噂話まで信じ込む。世間という現実を、彼はこの時、初めて思い知った気になった。
そしてきっとこの頃が、これまでの人生で一番キツかった時期だろう。
そんなことを知ってはいても、彼にできることは何もない。だから自分のことだけ考えて、生活の基盤を整えるために日々行動していったのだ。
そうして紹介されたアパートは、かなり年季の入ったトタン造りの建物だ。それでも前を通る道路は舗装され、この道を走って坂を上がれば林に続く道に出る。
家賃だってべらぼうだ。剛志は最初その金額を、まさか家賃だとは思わなかった。
「で、あれだあ、ボロいのになんなんだけど、一応、二千円ってことなんだけど、いいかな?」
「もちろんけっこうです。わたしはもともと、どこの馬の骨ともしれないやつなんですから、手付けならもっとだって支払いますよ。ぜひとも、よろしくお願いします」
申し訳なさそうな正一に、剛志は素直にそう言った。すると一瞬驚いたように、
「旦那、バカ言っちゃいけないよ、ここ一週間の旦那を見てりゃわかるんだ」
正一はそう言うと、すぐに得意げな顔つきになる。
「旦那はね、きっとどこかのお坊っちゃんだ。きっと何か事情がおありで、ご両親のところを飛び出して、独り住まいをなさろうってんでしょ? それくらいね、このわたしにだってわかりますよ……あ、それと旦那、二千円ってのは手付けじゃない。家賃ですよ、あの野郎、あんなボロアパートなのに、頑として二千円から負けようとしないんだ。申し訳ないね、俺もここんとこ、剛志のことでいろいろあってさ、以前のようにね、そうそう強気に出れないんで……」
女子高生の行方不明。それだってずいぶん足かせだろうに、さらに殺人事件となれば、どうしたって近所にあるアパートには大打撃だ。若い女性ならもちろんだし、元の時代で似たような物件に出くわせば、きっと剛志も二の足を踏んだことだろう。
ただなんにしても、彼にとっては文句なしだ。だから一目で入居を決める。それからいろいろ考えた結果、やはり得意な世界で勝負をしようと思うのだった。
剛志が働いていたアパレル産業は、けっして潰しが利くような業界ではない。
元いた時代では、DCブランドこそ注目され始めていたが、どちらかと言えば衰退期に向かい始めた業界だろう。しかしこの世界では、まったくもって事情が違った。
昭和三十四年にレナウンが、業界で初めてテレビCMを放送する。そしてその数年後、まさしく剛志がいるこの年に、プレタポルテ時代が到来したと言われていた。この年から女性の既製服率が一気に上昇。それとともに、アパレル企業や婦人服専門店などが急成長していったのだ。
――この時代なら、上手くいくかもしれないぞ……。
そう考えつつも、まったく新しいものは生み出せないと思う。ただ過去に流行ったトレンドについては、今でもしっかり頭の中に入っていた。ただしそんな記憶は会社に入ってからがほとんどで、今いる時代についてはかなり怪しい感じとなるのだ。
それでも、何かあるはずだ。そう必死に考えて、彼はミニ丈のスカート一本で勝負をしようと決めるのだった。
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