第2章   1983年 プラス20 – 始まりから20年後 〜 5 二月九日

 5 二月九日


 

 剛志が就職した昭和四十四年という時代は、まだまだファッション業界全体に勢いがあった。

 婦人服専門店として最老舗だった彼の会社も例外ではなく、へたな商社や銀行などより給料は上。もちろん、智子が夢見ていた頃ほどではないが、それでもまだまだ少女たちの憧れの世界ではあったのだ。

 総理府が人口一億人突破を誇らしげに発表し、女性誌〝an an〟が創刊。「モーレツからビューティフルへ」――を合言葉に、業界全体がずっとこんな時代が続くだろうと思っていた。

 ところが入社して四年目、昭和四十八年の十月に中東戦争が勃発する。

 そんなことに端を発して第一次オイルショックだ。

 みるみる会社の業績が落ち込んで、翌年には赤字にならないまでもかなり厳しい決算となる。それまで八ヶ月もあったボーナスが激減し、新入社員に提示していた給料が払えないといって大騒ぎとなった。

 そんなことから早くも十年、長い低迷期を抜け、ようやく業績も上向いて、業界では〝名門の復活〟などと騒がれ始めた頃だった。

 剛志は銀座にある本社勤めで、全国に何百とあるチェーン店への商品供給、いわゆるセントラルバイヤーとして大忙しの日々を送っていた。

〝東京銀座の洋服が、地元にある百貨店でも買える〟。

 そんなイメージに人気の出た小型店舗だったが、全国に広がれば広がるほど高品質の維持が難しくなった。そうして徐々に、販売する商品が銀座というイメージからかけ離れていくのだ。

 ちょうどそんな時代に、剛志はまさしくその現場で働いていた。

 そして月曜日といえば、バイヤーにとって大忙しの日だ。

 パソコンやメールなどが普及する前だから、店と本部を繋ぐオンラインシステムなどもない。

 だからキーとなる店の開店時間を待って、担当のバイヤーたちが次々店長へ電話をかける。そこで聞き取った情報を元に、大慌てで今後の戦略を立てなければならない。

 そんな月曜日だというのに、どうにもやる気が出なかった。

 受話器から響く店長の声が、まるで騒音のようにしか感じられない。

「ちょっと児玉さん! 聞いてるんですか!?」

 そんなのが受話器から響いてやっと、彼はとうとう決心するのだ。

 自分より遥か年上の店長へ「かけ直すから」と詫びを入れ、剛志はさっさと電話を切った。

 三階の事務所から無言のまま抜け出し、地下にある会議室へ行こうと階段を駆け下りる。

 午前中はどの部署も状況把握に大忙しで、営業会議などしていないはずだ。だから誰もいない会議室で、頭に刻み込まれた番号へ電話をしようと考える。

 あの日の夜、家にあった電話帳で、あの屋敷の電話番号はあっという間に見つかった。そして電話をするか否か、電話したところでどのように説明するか? そんなことを考えながらメモった番号を眺めるうちに、七桁の数字すべてが頭にしっかり刻み込まれてしまった。

 とにかく、出たとこ勝負だ……。

 呼び出し音が続く中、剛志の心は意外なくらいに落ち着いていた。

 この段階で、すべてを話してしまう必要はない。まずは会って話がしたい、そんなことさえ受け入れてもらえれば、後は直接会って、相手の反応を見ながら説明していけばいい。

 そう思って、けっこう安心していた剛志ではあった。

 ところがその後の展開は、思っていた以上にすんなりだ。

 呼び出し音のまま、そこそこの時間待たされた後、きっと剛志よりは年上だろう男性が電話口に出る。

「突然すみません。わたくし児玉と申しますが……実は、少し聞いていただきたいお話がございまして……」

 そこまで一気に声にして、ひと呼吸くらいだけのつもりで言葉を止めた。すると相手の咳払いが小さく聞こえ、いきなり呆気ない感じで言葉が返った。

「そうですか……で、うちにいらっしゃいますか? それとも、どこか外でお会いする、ということでしょうか?」

「いえ、もし伺ってもよろしいのでしたら、そうさせていただけると幸いですが……」

 まさしく、たったこれだけだった。後はいつならいいかと尋ねて、明日は用事があると言い、明後日であれば何時でもいいと返してくれる。

 剛志は明後日の午後三時にと約束して、電話口で深々頭まで下げたのだった。

 突然、見ず知らずの他人から話があると言われ、普通あんな簡単に、家の中へ迎え入れる約束などするだろうか?

 ――やっぱり、あそこまでの金持ちになると、その辺も違うのかもしれないな……。

 そんな自問自答をしたりするが、実際には家の中にもガードマンがいたりして、下手な心配など無用なのかもしれない。

 ただなんにせよ、屋敷に入れるならこれ以上ないほどありがたいのだ。

 剛志は早速、明後日の水曜日に午後から早退したいと申し出た。

 奇しくもその日は二月の九日。まさしく運命の日までちょうどひと月前だった。そんなことにも何か因縁を感じながら、剛志は再び受話器を手にして現実の世界へ舞い戻っていった。

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