第15話
天正3年4月から始まった石山本願寺攻めは、 堺の新堀という出城を一気に攻略、城代の香西越後守は誅され、追い詰められた高屋城の三好康長は松井友閑と通じて降伏し赦免された。 本願寺の出城を落とし本願寺を丸裸にした信長軍は、天正4年5月3日原田直政が総大将となって本願寺の楼岸と木津の間にある三津寺を攻撃し、 海上封鎖を狙った。本願寺勢は三津寺を救援するため、楼岸砦から1万5000ほどの軍勢が出撃し、弓、鉄砲数千挺を放ちかけて防戦、織田軍の先陣は総崩れになった。
総隊長の原田直政が受け止めようと奮戦したが、大将の直政以下一族や家臣の主だったものが多数討ち死にし、織田軍は天王寺砦に追い詰められた。 直政の兵は、山城、大和の国衆で、最後はあてにならなかった。天王寺砦には明智光秀、佐久間信栄(信盛の嫡男)らが逃げ込み籠城したが落城も時間の問題だった。
在京中の信長は、織田軍の大敗の急報を聞き出馬、わずか100騎ばかりで若江に着陣。若江城で情報収集をし佐久間信盛、松永久秀、滝川一益、 羽柴秀吉、丹羽長秀ら匆匆たる武将が参陣したが、 兵卒は動員が遅れ総勢は三千人程度しか集まらなかった。信長は、待てなかった。勝ち負けではなく、腹立たしさからだった。
信長が一向宗とか関わったのは永禄四年にさかのぼる。一向宗は、初めから厄介な存在だった。彼らは最も低姿勢で、しかも全く妥協せず権利の主張は変えず、戦えば一番強かった。多くの名のある主将が、名もない者に討ち取られた。しかもその数は半端なく多く 、一門衆も例外なく殺され容赦なかった。 勝っても若手しか領地は増えず、ただ民が殺され収穫量が減るだけであった。信長と一向宗 との争いは、桶狭間の戦いから1年後尾張の盛泉寺の交渉が屈辱的な締結で終わったことから始まった。盛泉寺は蓮如の実子、蓮芸が開基となって下市場に建てられ、それ以後門前町の利権を握っていた。 まだ尾張を統一したばかりの信長は、その利権を指をくわえて見ているだけであった。 しかも長嶋では領主伊勝氏を追い出して真宗王国を築いており、このような自治制を布く一向宗のやり方を信長は許すはずはなかった。 一向宗と織田家との対立の歴史は根深く、 天文5年、勝幡城の織田信秀や家老の平手政秀が二の江の興善寺と対立を強め、興善寺側が守護代の織田達勝と連携して対抗した頃から始まっている。 織田家と一向宗は信長が生まれた頃から死ぬ2年前の46年間戦い続け、これほど長く戦った相手は本願寺 以外にはいなかった。 長嶋攻めは信長が多大な損害を被りながらも、天正2年に皆殺し作戦で終了した。皆殺し作戦 という残忍な作戦は、本願寺への見せしめの為でもあるが、信長個人の感情からでもあった。 信長を、ここまで苦しめた相手はいない。すでに天下人となっていた信長は、未だに抵抗を続ける本願寺が憎かったま。しかも今回お気に入りの武将原田直政の討死の報告に、信長は我慢ならずに出陣していた。
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