第53話 懐かしい味

 遠くで、ドンドンと音がする。


 むっくりと起き上がると、部屋の中は真っ暗だった。


 ドンドンと再び音がする。


 誰かがドアを叩いてるようだ。


 ……あっ!


 私はベッドから降りて、慌ててドアを開けた。


 案の定そこにはおぼんを片手に持ったルカがいて。


「早く開けろよな。……ってお前、寝てただろ。俺に飯作らせておいて、お前はつくづくいい度胸だな?」

「ね、寝てなんか、ないよ?」


 しどろもどろに答える。


「明かりがついてない。あと寝癖、ヨダレの跡」

「やだ、嘘!?」


 寝癖と言われて頭に手をやった私は、反射的に腕で口元を拭いた。


 男子にヨダレのあとを見られるとかあり得ないよ!


「嘘」

「!?」


 しれっと言われて、私は声にならない悲鳴を上げた。


「ひどい……」

「寝癖はついてるぞ」

「ううう……」


 私は頭の寝癖をなでつけた。


「ご飯楽しみにしてたら昨日眠れなくて」

「馬鹿じゃねぇの?」


 ルカはあきれていた。


 うん、私もそう思う。


「ほらこれ、お前の分」

「これって……!」


 差し出されたお盆を見て、私は目を丸くした。


 お肉のお皿とパンしかない。サラダも、付け合わせの野菜も一切なかった。


「俺の分、持ってくる」


 ルカの声が耳に入ってこない。


 これは……これは……。


 嘘でしょ?


「おい、何してる。俺の飯が不満なのか?」


 ルカが戻ってきた。


「ううん。まさか。そうじゃなくって……」


 私はお盆の上から目が離せなかった。


「飯が冷めるだろ。早く行けよ」

「うん……」


 私はふらふらとテーブルに向かった。お盆を置いて、すとんと座る。


 ルカは向かいに椅子を置いて座った。


 そうだ、ルカの椅子を買うつもりだったんだ。


 頭の片隅でそう思う。


 ルカが食事を始めた。


 でも私は手を膝の上に置いたままじっと皿を見つめていた。


 てっきりコンソメスープかデミグラスソースだと思ってたのに、角煮が浸かっているスープは濃い茶色だった。油が表面にたくさん浮いている。


 脂身と赤身が交互に層になっていて、その表面はてかてかと光っていた。


 濃厚な匂いが湯気と一緒に立ち上っている。


 ごくり、とのどを鳴らした。


 美味しいのはわかってる。ルカが作ったものだから。美味しいに決まってる。


 だけど……。


 私は震える手でナイフとフォークを手に取った。


 フォークをお肉に刺す。


 硬くて有名なロックボアの肉なのに、想像以上に軟らかくて、ぷすっとわずかに抵抗を感じるだけだった。


 刺した所からあぶらがあふれて、スープの油膜に加わった。


 ナイフの刃を脂身と赤身の層に垂直に当てる。


 お肉はぷにっとへこんだあと、刃がすっと通った。


 ゆっくりとフォークを口に運ぶ。


 匂いがさらに濃くなった。


 口を開けた所で手が止まってしまう。


 怖い。食べるのが。怖い。


 だってこれで期待を裏切られたら、ショックが大き過ぎる。


「食わないなら俺が食うぞ」


 目線を上げると、ルカが私のお皿に手を伸ばしてきていた。


「駄目!」


 私はナイフとフォークをいったん置いて、お皿をお盆ごと持ち上げてそれを阻止した。


「なら食えよ」


 ルカは不満そうに私を見ていた。


「うんうん。食べる。食べるから」


 お盆をテーブルの上に戻して、お肉が刺さったままのフォークを右手で持つ。

 

「いただきます」


 つぶやいてから、そろそろと口の中へ。


 舌の上に乗せて口を閉じた瞬間――。


 しょっぱくて甘い味が口の中いっぱいに広がった。

 

 ぼろっと私の目から涙が落ちる。


「おいっ、なんだよ!?」


 ルカがびっくりして大きな声を上げた。


 私の目から、また涙がこぼれた。


「何でもない。何でもないの。ただ、美味しくて」

「何も泣くことないだろ」

「こんなに美味しい物、こっちで食べたことなくて……っ」


 ルカの角煮は、すごく懐かしい味がした。


 これ、お醤油しょうゆだ。あとこの甘さは、お砂糖じゃなくて、多分みりん、だよね?


 この味がこっちの世界で味わえるとは思わなかった。


 お醤油があるってことは、お味噌みそもあるのかな。


 ぐすっと鼻をすする。


 鼻がつまって味がよくわからない状態で食べるなんてもったいない。


 私は上を向いて涙を引っ込めた。


 ナイフで切って、もう一口食べる。


 美味しい。


「これ、どこのお料理なの?」

「俺の故郷いなかの」

「そうなんだ」


 やっぱり、地方に行けば、こういうご飯も食べられるんだ。


 一口一口味わって食べる。


 濃い味付けは、パンが欲しくなる。


 パンを手にとると、浸すためのスープがなくても食べられる程には柔らかかった。


 でも酸っぱいのは変わらなかった。


「ご飯があればいいのに」


 ぽつりと口から漏れた。


 醤油味にはご飯だ。絶対。パンじゃなくて。


「米なぁ……ここにはないからなぁ」

「お米知ってるの!?」


 私はびっくりして椅子を倒してしまった。


「あ、ああ……。ここからだとかなり遠い所でだけど、食ったことはある」


 ルカはぎょっとして答えた。

 

 椅子を戻してその上に座る。


「そっかぁ……」


 お米もあるんだ。ご飯が食べられるんだ。


 こっちの野菜みたいに、あっちほど美味しくないかもしれないけど、それでも、ご飯が食べられるんだ。


 嬉しすぎて、きゅぅぅっと胸が苦しくなった。


「ルカ、ありがとう」

「まあ、ついでだし」

「そうじゃないんだけど、ありがとう」

「いや、なんか……悪いことしたな」

「え、何で? そんなことないよ。本当に、ありがとう」


 ルカは気まずそうにしてたけど、私はルカに向かって笑った。


 いつかルカの故郷と、お米が食べられる所に行きたい。


 それまでは、ここで頑張ろう。

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