第39話 トイレの見返り

 デルトンさんの部屋のベルを鳴らす。


 が、デルトンさんは出てこない。


 待って待って待って。


 ドアの隙間からは光が漏れてきていない。


 留守るす


 さっき帰ってきたばかりなのに?


 私は何度もベルを鳴らしたけど、私の持つランプの明かりに照らされている扉が開くことはなかった。


 明日の朝はいるよね? 一緒に出勤するんだから。


 ううん、それまで待てない。トイレをあのままにしておくなんて嫌だ。


 ここで待つ?


 きっとすぐ帰ってくる。もう夜遅いんだから。ちょっと出かけてるだけのはず。


 私はデルトンさんの扉の前に座り込んだ。


 だけど、しばらく待ってもデルトンさんは帰ってこない。


 タイミングが悪かったのかも、と思って途中で何度かベルを鳴らしてみたけど、無駄に終わった。


 もう寝ちゃったのかな……。


 どうしよう。


 自分が出した物なんだから、ちょっと我慢がまんすればいいだけなのに、綺麗なトイレに固執こしつしていた私には我慢できなかった。


 お隣さんを頼ろう――。


 デルトンさんが契約しようとして、タッチの差で先を越されてしまったあの部屋だ。


 誰が住んでるのかわからなかったけと、猫の手も借りたい思いの私は、ダメ元でお隣さんに頼んでみることにした。


 階段を上がって、自分の部屋の隣の扉の前に立つ。


 隙間から見える光は、在宅中であることを示していた。


 すごくドキドキする。


 ええい。トイレのためだっ!


 私は、震える手でベルを鳴らした。


 中からは何の音もしない。いるはずなのに。


 もう一回ベルを鳴らそうとしたとき、唐突に扉が開いた。


「わっ」


 私はびっくりしてる。


 そして、すぐにはっと思い直して、薄く開いた隙間に向かって口を開いた。


「あのっ、トイレの魔導具を貸してもらえませんか? 一回分だけでいいんです。使わせて下さい!」

「は?」

「えっ!?」


 大きくなった扉の隙間からのぞいた顔を見て、私は頓狂とんきょうな声を上げた。


「なんであなたがここに!?」


 現れたのは、なんと、黒牛くろうしつの亭で隣の部屋だった、あの藍色あいいろの髪の彼だったからだ。


「お前こそここで何やってるんだよ」

「私、隣の部屋に住んでるんです」

「は?」


 彼は目を見開いた。


 そしてすぐにそれがすっと細くなる。


「お前、俺のストーカーか?」

「な!? 違います! ストーキングなんてしてません!」

「じゃあなんで隣にいるんだよ」

「偶然です!」

「そんな偶然があってたまるか」


 私だってそう思うけど、偶然なんだからそれ以上言いようがない。


「デルトンさんが住むはずだったんです。なのに先にあなたが契約しちゃって……!」

「デルトン? ああ、あのおっさんか」


 彼は呆れるように言った。


 前に言われた「親子ほどに離れているのに」という言葉を思い出す。


「違います! デルトンさんとはそんな関係じゃっ! デルトンさんは私のっ、私の――」


 何て言えばいいの!?


 護衛だなんて言えないじゃん。


「お、伯父おじさんですっ」

「ふーん」


 無理矢理ひねりだした苦しい言い訳は、逆に誤解を深めてしまったようだ。彼の目が「そういうことにしといてやるよ」と言っている。


 違うのに!!


「で、ストーカーじゃないなら、何しに来たんだよ。魔導具がなんだって?」

「あっ」


 そうだ! トイレ!


「トイレの魔導具を貸してくれませんか。壊れちゃって流せないんです」


 一回分。一回分だけ貸して欲しい。流しちゃいたいだけなの。明日はデルトンさんにお願いするから……!


 切実な訴えだったのに、しかし彼はふんっと鼻を鳴らした。


「何で俺が」

「何でって……」


 確かに。この人に私を助ける義理なんてない。


 でも、困ってる人がいたら普通助けない? 義理はなくても人情はあるでしょ?


 そう思ったけど、頼んでいる自分の方からは口に出せない。


「お願いします。すごく、すごく困ってるんです」


 私には、頼み込むしかできない。


「見返りは?」

「見返り?」


 前助けてくれたときは気にしなくていいって言ってくれたのに……!


「えっと……お金! 一回分支払います! ううん、買い取ります。言い値でいいです!」


 そんなに必死になることじゃないのに、私のテンションはちょっと変になっていた。


「金なら困っていない」


 がーん。

 

 私の破格の申し出は、さくっと却下された。


 見返り……見返り……お金じゃなくて、私にできること……。


 えーと、えーと……。


 なぜかこのとき、私は魔導具のことじゃなくて、さっき買ってきた食材のことが浮かんだ。


「りょ、料理! ご飯をごちそうします!」

めしか……。お前の手料理なんて興味ないけど、まあ、そんだけ必死なら貸してやるよ」

「え?」


 今度はあっさりと承諾されて、私は逆にぽかんとしてしまった。


「待ってろ」


 彼は一度扉の向こうに引っ込むと、トイレ用の水道の魔導具を持って戻ってきた。


「ほら」

「ありがとうございます! すぐに返します」


 突き出された四角い魔導具を受け取って、私は自分の部屋に戻った。鍵を開けるのももどかしかった。


 壊れた魔導具の代わりに借りた魔導具をセットしてスイッチオン!


 無事にトイレは流れた。


「はぁぁぁ……」


 トイレの前で座り込みたいほど安心した私は、早く返さなきゃ、と思い直す。借りパクだと思われたら嫌だ。


 その前に。


 せめてものお礼と、魔石一個分の魔力を充填じゅうてんする。


 急いで隣に戻って、ベルを鳴らし、出てきた彼に魔導具を渡す。


「ありがとうございました!」

「じゃ、できたら呼んで」


 それだけ言って彼は中に入って行った。


 え? できたら、って、何が?


 ああ、そうだ。ご飯作るんだった。


 

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