短編小説

蒔田龍人

お題、『海』

 容赦なく吹き付けてくる強風に目を細めながら、崖の淵に立ち尽くしている中年の男が、白いものが目立ち始めた頭髪の乱れもそのままに、まだ幼い少女を右肩越しに見下ろしている。 

 その隣で同じく強風を真正面から受けながらも、その少女は能面かのように無表情のまま、小さな体を細かく揺らして黙り込み、その場から動こうともしない。


その娘が二一四〇グラムの未熟児として出産予定日より一週間も早く生まれたのは、けっして自然な結果ではなく、担当医師の一方的な都合からだった。

 大手引越しセンターの主任として休日出勤や残業の毎日を余儀なく過ごしていた夫との間にやっと授かったその子の母親は、高齢妊娠であったために診断した医師から『万が一』の通告も受けていたが、あくまでも独断で自分の意志を貫き、それどころか、安全かつ確実な選択を薦める医師をも冒涜するかのような屈辱的ともいえる言葉までをも散々浴びせ、連れ添っていた夫の顔から血の気を引かせた。

 その余計な一言が災いの元となったのか、結果的には陣痛促進剤を使われて、母親は意図的に早期出産をさせられたのだった。

 本来の出産予定日は、担当医師にとって、ゴルフの予定日にもなっていた。

 高齢かつ早産ではありながら、母子とも無事に最悪の結果こそ免れたものの、そうして産まれた赤ん坊は、白内障かのような色の薄い瞳孔から、おそらく未熟児網膜症からくる弱視であろうと診断された。

 しかし赤ん坊の両親は、諦めかけていた天からの授かりものにたいそう喜び、夫以上に興奮した母親は、いったん決めた意志を貫く相変わらずなその頑固さから、夫や互いの両親との相談もなしに、赤ん坊の名前を勝手に決めてしまうのだった。


 二人の出会いは、堺市と和泉市との間に挟まれた伏屋町ふせやちょうのキャバクラで将来の夫となる男の隣に母親が座ったことがきっかけだった。

 酒に酔った勢いで並べ立てた男の武勇伝を耳にして、店に年齢を偽って働いていた母親が、「ウチな、昭和のヤンキーに憧れてんねん」と男の耳元に囁きながら、水割りをつくってやったグラスのその下に自分のハンカチを敷いた。その隙間に自宅の電話番号を記した名刺を挟んでおくことを、彼女は忘れなかった。

 それから二人の関係はきわめて急速に発展していったが、それはごく自然な成り行きでもあった。出会ってから半年もせずに懐妊がわかって二人は籍をいれ、母親は男のアパートに転がり込んだ。それはまるで予期していた上での身のこなし方だったように男には思えたが、「まぁ、しゃぁないか」と自分の運命を自分で納得させていた。

 年数が両手の指では収まりきれないほど以前から、若気の至りで自動車普通免許を取り消されていた夫は、結婚後にホステスを辞めた同じ年の専業主婦が運転する軽自動車でそれまで通勤していたが、赤ん坊が産まれたことをきっかけに、自ら率先して自転車と電車で会社を往復する毎日に変えた。残業は極力控えさせてもらう努力もした。

 そうした日々を送っているうち、ベビーベットで眠り続けている、なかなか元気に泣かない赤ん坊を、男はどことなくいぶかしく思いはじめていたが、今はまだ未熟児なのだから、やがて成長していくとともにどこにでもいる子供に変わっていくことだろうと、どちらかが口にするでもなく夫婦共ども楽観的にその現状を受け入れていた。

 しかし、赤ん坊の成長を見守り続けていくうち、自分たちの愛娘が喜怒哀楽に欠け、そしてその独特な表情から、それが染色体の突然変異からくる症候群であろうことに、二人はやっと気づきはじめる。

「ウチの子、健常ではないかもしれへんわ」

 みかんが積まれた木製ボウルを中心にして台所のテーブルで向かい合って座る母親の、その言葉に、

「しゃぁないやんか、どんな子になろうと、立派なひとり娘やで。これからも普通の子供と同じように、愛情をもって育てていこうやないか」

 夫は吸っていたタバコを揉み消しながらそう応えるしかなかったが、しかし母親は、我が子の寿命は健常者よりも遥かに短くなってしまう可能性が非常に高いという、無情な現実を受け入れることがどうしてもできなかった。

 そしてそれから数週間後に、母親は姿を消した。

 翌日が夫の休日だったその真夜中に、こっそりとアパートを出て行った。

 赤ん坊を置き去りにして。

 時間がたっても一向に戻る気配のない母親に、もうこの部屋には二度と帰ってこないのだと自覚した夫は、

「まぁ、しゃぁないか」

 としか思わなかった。


 それから二年がたった頃、母親が家を出て行ってからは、神戸に暮らす男の両親が、彼のアパートがある大阪の和泉市で同じアパートの一室を仮宿として借りてくれ、そして赤ん坊を代わりに育ててくれていた。

 その両親はすでに隠居生活を送っていたが、長男が受け継いだ商社は相変わらずの右肩上がりとなっているおかげで、両親も毎日の生活に困らないばかりか、むしろ裕福すぎるほどの暮らしぶりで時間を持て余している。そんなこともあって、孫のおもりを快く引き受けてくれたのだった。

 実のところ次男の彼は、二十歳を目の前にした二十三年前から、その素行不良さによって父親から勘当を宣告されていたのだが、孫となったら話は別だ。とにかく孫は可愛い。たとえ不良息子の娘であろうと、たとえ発達障害があろうと、孫は孫。男の両親は、その赤ん坊を心底から可愛がり、そして今のとこは愛情をもって接してくれている。だが時間と共にどうなっていくかは何の保証もない。

 一方で赤ん坊の父親は、その間に自動車免許を取得するため教習所通いをはじめていた。

 教習所へは最初の頃こそ夜学でしか通えなかったが、やがて長く勤めてきた引越しセンターを辞め、時間的に融通のきくアルバイトへ仕事を切りかえもした。

 プライドだけは高いままな父親が、外国人留学生からの指導を受けながら、コンビニエンスストアーで真夜中から朝まで働き、日中は日中で教習所へと通いつめた。

 彼には計画があった。

 その計画を実行しなければ、自分にとってこれから先の人生に希望はない。

 やがて未熟児だった赤ん坊は発育が遅れているなりに自分の力で立ち上がり、なにかに目を向けては手を叩いたりするものの、三歳の誕生日を過ぎても表情は変わらず、未だに言葉も発しない。

 父親はそんな娘を少しだけ怪訝に思っていた。

 そんな彼が、年下の教官に尻を叩かれながらもオートマ限定自動車免許をどうにか取得すると、それから数日後の夜にコンビニエンスストアーを休んでレンタカーを借り、そして娘と床を共にして、一夜を明かした翌朝から、娘を乗せてドライブに出た。

 レンタカー屋で一緒に借りたチャイルドシートにいやがる娘をくくり付け、そうして彼は高速道路を飛ばした。

 阪神高速から中国自動車道に乗り換え、そして舞鶴若狭まいづるわかさ自動車道の丹波インターから山陰近畿自動車道に再び乗って宮津天橋立みやづあまのはしだてインターで降りた後、地味なレンタカーはどんどん人気ひとけのない山間へと突き進んでいく。

 途中で愚図った娘を車から降ろして、場末のコンビニエンスストアーでシーチキンマヨネーズの海苔巻きとオレンジジュースとを買って食べさせ、ついでにトイレも済ませた。

 店を出てから歩きたがらない娘を抱いて再び車に乗せ、チャイルドシートのベルトをしっかり留めると、白くて小さなレンタカーは、山間をさらに奥へ奥へと進んでいった。

 腹が満足したのか、運転中にルームミラーを覗いてみると、娘は首を前方に折り曲げたまま眠りこけている。

 そうしてアパートを出てから四時間後に目的地へとたどり着くと、静かにドアを開けた父親は、眠ったままの娘をチャイルドシートから抱き下ろした。

 太陽に照らされて乾燥した、ひび割れた土の上にいきなり立たされて、ぼんやりと目を覚ました娘が、相変わらずな表情で目をこすりながら、周りの景色を擬視している。

 その途端になにかを感じ取ったのか、恐れた様子で娘がいきなりしゃがみこんでしまった。

 父親が「ほら立って」と言ってもまったくきかず、石のように固まっている。

 エアコンのきいた車内から無理やり表へ出したからだろうか。

 呆れたようにため息をつくと、いやがる娘を無理やり抱き上げた父親は、林の向こうへと歩き始めた。

 眠っているときと同様に、抵抗をみせる小さな娘は、なんだかいつもより重く感じる。

 歩いてほしいが、しかしここで逃げられてしまったらまずい。ここまでやってきたことが、元も子もない。

 木々の合間から照り付けてくる日の光に目を細めながら小石を踏まぬよう慎重に歩いていると、昼前とはいえ残暑の厳しさに噴出した汗が、袖をまくったカッターシャツのほどんどを濡らし、けたたましいセミの声もあちこちから重なり合って、尚も不愉快さが増してくる。

 抱き上げられた娘もじっとりと汗ばんで、孫のためにと買ってくれた、胸に熊のアップリケがついた赤いティーシャツにも大きな染みが浮かんはいるが、その表情はいつものまま一向に変化しない。

 おそらく本人は「どこに連れて行くの?」と聞きたいのだろうが、残念ながら言葉を発する能力が今の彼女には備わっていない。

 額から垂れてくる汗をぬぐいたいが、娘を抱いて両手をふさがれているかぎりはそれすらもできない。

 そうして十分も歩いたろうか。

「ついたで」と言って娘をおろしたそこは、断崖絶壁の淵だった。

 こちらに向かって、生暖かい風が強く吹いている。

 細い髪を真後ろになびかせながら目を細めている三歳の娘は相変わらず無表情のまま、その強風に踏ん張った体を大きく揺らしながらも、隣に立つ父親にすがろうとする素振りは一向に見せない。

 自分のすぐ横に立ちすくんでいるそんな娘を見下ろしながら、父親は言った。

「パパはな、ズゥッとまえからな、おまえをここに連れてきたかったんや」

 だが、相変わらず娘はなにも反応しない。

 それでも父親は語り続ける。

「ここはな、おまえのママがパパを軽自動車に乗せて、この景色をパパに一回見せてやろうと、わざわざここまで運転してきたんやで。ほいでな、『どや? 絶景やろ!』ってな、さっき寄ったコンビニで買ったアメリカンドッグ食いながら、パパに自慢しておったからな」

 そうして父親はいったん鼻をすすって、娘に向けていた顔を上げた。

 その眼はまっすぐ前を見つめていた。

「だからな、実はおまえが産まれてからズゥッとな、いつかはおまえにもこれを見せてやろうってな、ほんとにズゥッと思ってたんや。本当だったらやな、ママにも一緒にいてもらいたかったんやけどな」

 強い瞳で前方を見つめながらそう語りかけている父親と、その隣に立つ三歳の娘。

 その目の前には、強い太陽の光に反射してキラキラと碧く輝く壮大な海が、どこまでもどこまでも広がっている。

 強く吹き付けてくる風に揺らぐことなく、その光景を眺めながら父親は続けた。

「ママはなぁ、おまえが産まれてすぐにな、パパの意見も聞かないで、おまえの名前を決めたんや。ちっさいちっさいおまえに微笑みかけながら、体も心も広大な娘に育っていってなって、そうしておまえを『海』って名づけたんやでぇ。そやから、おまえにいつかその海を見せてやりたかったんや。そうしてやっと、やっとそのときが、こうしてやってこれた」

 おそらく娘には、父親のその言葉が理解できなかっただろう。

 だが、

「どんなことがあってもな、おまえはきっと、きっと名前どおりの子に育つ。そやからパパはな、そんなおまえを、いつまでもいつまでも、見守り続けてやる」

 その時だった。

 まるで自分に言い聞かせているかのような父親のその言葉に、

「パ……パ……」

 不意に娘がそう言って、微笑んでくれたのだ。

 父親にはそういう気がしてならなかった。

「海? いまパパに……」

 それはほんの一瞬の出来事だった。

 だからもしかするとそれは、ただ父親が良いようにそう捕らえただけだったのかもしれない。


 しかし確実にいえるのは、隣で強風を受けながらも踏ん張って立ち続けている小さな三歳の娘が、その小さな小さなその五本の指で、父親の太くて大きな右手の人差し指を、ギュッと力強く握っていることだった。

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