第9話 フュルスティン・ファフニール
ファフニールの心は、大きく乱れていた。
「気に入らない気に入らない気に入らない、兄上を呼び捨てにするなんて。兄上も兄上よ、どうして呼び捨てを許したの? しかも国賓待遇まで与えて」
眉間に皺を寄せ、ずかずかと歩きながら一人呟くファフニール。メイドとしてはあるまじき歩き方とその雰囲気に、すれ違った他のメイドが驚いて振り返る。
「気に入らない気に入らない気に入らない、私を手玉に取るなんて。私は候国のフュルスティン、その私が翻弄されるなんて。数え切れないほどの嫌な客人、いけすかない客人がこの城を訪れた。私は今まで、そんな手合いを上手に受け流してきたわ。候国のため、リンド族のため、心に甲冑を纏い、己を押し殺して来た」
それなのにと、ファフニールは立ち止まる。
「あの瞳に、吸い込まれそうになった。悔しい、心を丸裸にされた気分。ああもう、気に入らない気に入らない気に入らない。でも、気になる」
何かを振り払うように、棒をブンと一振りして種火を消す。そしてファフニールは、みやびから見えない螺旋階段の脇で壁にもたれかかった。
「あの人からは、属性特有のオーラが感じられない。あれが無属性? 信じられない。単なる伝説、架空の属性だと思いこんでいたのに、まさか本当に存在するなんて」
気が付くと、ファフニールは親指の爪を噛んでいた。小さい頃、はしたないと母によく叱られたものだ。城のメイドとなってからは、この癖が出ることは無かったのだが。
「夢を叶える、あの人はそう言っていた。私の夢が叶うまで、果たしてこの国は存続しているのかしら。私の髪を、あの人は綺麗だと言った。この髪が碧く染まる日は、果たして来るのかしら」
「ファフニール、そこにいたのか」
聞き慣れた声。それはファフニールにとって唯一の肉親、ブラド七世のもの。階下から、彼がこちらに向かい階段を上って来るのが見えた。
「兄上……。いえ城伯、私にご用でしょうか」
ブラドはいま話しかけても大丈夫かと尋ねながら、彼女の前に歩み寄った。
「照明の点灯作業は終わりましたので大丈夫です。でも私をお捜しでしたら、何人かのメイドに声をかけてくださればよかったのに。わざわざ三階までお運びいただかなくても」
「ああ、気にするな。君をメイド長としてではなく、フュルスティンとして話しがしたかったんだ。ならば僕の方から出向くのが筋だろう」
「私はまだ、正式なフュルスティンになっておりませんが」
「リンド族としてはな。だが候国としては、君は九歳の時から既にフュルスティンだ。それにもうすぐ十七歳、そろそろ簡単な公務に就いてもいい頃合だろう」
昔から裏表のない
「それは望むところです。で、私にどのような公務を任せてくださるのでしょう」
「早速なんだが、今夜の晩餐で主人役を頼む」
「あら、晩餐に招くような高貴な客人などおりましたでしょうか。……あっ」
頭が痛くなってきたファフニール。よりにもよって、あの人とは。回避したいところだが、兄の頼みを無下に断るわけにもいかない。
「そう、蓮沼みやび殿だ。そう言えばやらかしたそうだな、ちゃんと謝ったか?」
「……いえ」
冷気を放出した無礼の謝罪を、まだしていない。妙子に言われなくても、自分の落ち度を認める分別くらいはファフニールも持ち合わせている。
あの時は咄嗟に笑顔を作ったものの、初めて目の当たりにした無属性の存在に身構えていた。兄を呼び捨てにされたことが引き金となり、つい冷気を放出してしまったのだ。
非は自分にある、分かっている。けれどみやびを前にすると、喉元まで出かかったお詫びがうまく出てこない。
頭の煤を取ってくれた時も、お礼の言葉が言えなかった。挙げ句の果てにアドバイスなどと、余計なことを言ってしまった。
いったい自分はどうしてしまったのだろうかと、肩を落とすファフニール。
「どうしたんだ? 君らしくもない」
光属性特有の、紫の瞳がファフニールの顔を覗き込む。しかし自分でもよく分からないこの気持ちを、兄に説明できるはずもない。
むしろ今のファフニールには、確認しておかなければならない事案があった。
「兄上、あの方を妻にお考えなのですか? それともスオンとして? もしや、両方なのですか?」
「どうしたんだファフニール、やぶからぼうに」
「真面目にお答えください。呼び捨てを許し国賓待遇を与えたのは、そういう事なのですよね? 兄上は候国の首都ビュカレストの守護職、国にとってもリンド族にとっても、重大な問題ではありませんか。お相手には相応の教養と、リンド族のしきたりを叩き込まねばなりません!」
ついまくし立ててしまったファフニール。しかしブラドは、目を丸くしたかと思うや急に吹き出した。
「何が、おかしいのでしょう」
「いや、驚いたな。ファフニールに小姑属性があったなんて」
「なっ、この世界にそんな属性は存在しません!」
心の中で、兄上のバカバカと叫ぶファフニール。たった一人の肉親なのだ、戦争さえなければ、リンド族でなければ、自分たち兄妹が直系の血筋でなければ、そう思ったことは一度や二度ではない。
しかしそれを嘆いてもしかたがない。せめて兄だけでも、相応しい伴侶を娶り穏やかな人生を歩んで欲しい。それが妹である、ファフニールの唯一の願いだった。
「数時間前に出会ったばかりだぞ。いくらなんでも、妻とかスオンとかはないだろう」
「でも、興味がおありなのでしょう?」
ファフニールの問いかけに、ブラドはただ微笑むだけだった。
胸の奥に、もやもやしたものが広がって行く。自分を翻弄する、蓮沼みやびが気に入らない。いっそ自分のことを嫌いになってくれたら、どれほど楽だったか。
ファフニールは自分でも気付かないうちに、自らのスカートを強く握りしめていた。
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