101話 嫁たちからは逃げられない

「全くもう、何をやっているのよあや子ちゃん。いきなり壁に頭を打ち付けるなんて……本当に今日はどうしちゃったの?心配になっちゃうよ……」


 あや子に浸食されかけた脳を正気に戻すため、頭に上った血を物理的に抜いた私は紬希さんに怒られながら治療されていた。


「い、いやぁ悪かったわね紬希。でも壁は傷ついていなかったし平気でしょう?」

「壁なんかより自分の頭の事を気にしてよぅ……怪我だけで済んだから良かったけどさぁ……」


 確かにあや子の頭は変態な上にロリコン過ぎて心配になりますよね。悪友として申し訳ないです、ごめんなさい紬希さん……

 それにしても……流石現役の看護師さんだと思わず感心してしまう。唐突な私の奇行に驚きつつも紬希さんはテキパキ的確に処置してくれて、お陰でだらだらと頭から流れていた血も止まったし痛みもほとんどない。


「はい、これでよし。とりあえず手当は済んだよ。血は止まったけどまた変な事したら傷が開いちゃうだろうから二度としないでね。心臓に悪いし……それにその、大好きな人が怪我するのは……見てられないし」

「ぅ……」


 そんな可愛い事を言いながら本気で心配してくれる紬希さんに、またもあや子の身体が反応し心ときめきかけて……正気をなんとか保とうとする私。

 般若心経をブツブツと唱えながら心を無にしつつ。頭に思い浮かぶのは、一つの疑問だった。


「(看護師さんとしても優秀だし。家事も上手だし。なによりこんなに優しくて一途だし……正直あや子には勿体なさ過ぎるよなぁ……)」


 あや子のアホが紬希さんに惚れるのも十分過ぎるくらいわかる。あいつの好みのタイプドストライクな上に器量まで良いなんて……あや子に都合の良すぎる天使みたいな人だし。今日の彼女を見ていると……そりゃ惚れるよなって痛いほど伝わってくるもの。


「(…………やっぱ信じられないわ)」


 だからこそ、私にはわからない。何をどう間違ったらこんな素敵なお嫁さんがド変態で度しがたいロリコン犯罪者予備軍女の事を好きになっちゃうんだ……?

 最初に出会った時に紬希さんからあや子を好きになった経緯は聞かせて貰ったけど、それでもにわかには信じられない。今日だけであや子のヤバさを再確認出来た私の見解としては、やはりあや子は脅迫や買収……もしくは洗脳や怪しいお薬を用いて紬希さんを無理矢理モノにしたとしか……


「ねえ紬希」

「ん?なぁにあや子ちゃん?」

「私の事、好き?」

「…………えっ」


 気づけば私は思わずそんな疑問を口にしていた。紬希さんは私のその問いかけに、数秒何か考える素振りを見せた後に……


「……はい、大好きです」


 迷いのない目でそう答えた。


「えっと……ちなみにどんなところが?」

「そう、ですね……どれか一つに絞るのが難しい程度にはいっぱいありますが……かっこいいところとか、凜々しいところとか。あと私の前だけ可愛いところを見せてくれるところとか——」


 乙女のように頬を染めて、紬希さんは好きな人の好きなところを挙げていく。けど……おかしいな。どれもこれも私の知ってるあや子じゃない。かっこいい……?凜々しい……??可愛い……???ホントにあや子の事ですかねこれは……?


「と、まあこの通り沢山ありますが。敢えて挙げるならやっぱり……」

「やっぱり?」

「私の事を好きって言ってくれること、そして……ですかね」


 むむむ?好きって言ってくれることはなんとなくわかるけど……好きを疑わないところとは一体……?


「時々その思いが強くなりすぎて暴走しちゃうところもありますが……毎日欠かさず私に好きって気持ちを伝えてくれるのが……初めての経験で、その好きも本物だから本当に嬉しくて。そして……あや子ちゃんはあや子ちゃんで……私からの好きの気持ちを微塵も疑うことなく、私の気持ちを全部受け止めてくれるのが……ああ、私たち両思いなんだなってわかって……それも泣きたくなっちゃうくらい嬉しくて……」


 幸せそうに全力で語る紬希さん。当事者じゃないのに聞いてるだけで恥ずかしくなってくる。


「(同時に、あや子の血がまたムラムラと……ッ!)」


 そして紬希さんがあや子の良いところを語るほどに、あや子の身体が私の意思とは関係無しに紬希さんを求めようとしてきて困る。まじで困る……!


『もう、なんなのこの可愛い生き物……』

『必死に私の事好き好きアピールしちゃって……大好き』

『あー……もうたまんない……理性とか吹っ飛ばして、本能のままに紬希を——』


「(立ち去れ……消え去れあや子の煩悩……!私の心には琴ちゃんという超絶美人さんしか入れないんだよ……!)」


 気持ちの悪い邪念を振りほどきなんとか正気に戻る私。ダメだ……これ以上ここにいるとホントにあや子ダメになる……!


「あ、ありがと紬希!貴女の想いは十分伝わったわ!私も愛してるわよ!ほ、ホントはもうちょっと紬希といちゃラブしたいところだけど……ごめん!そろそろお仕事行かなきゃね!紬希の為にも頑張って稼いでくるわ!それじゃ!」

「あ……っ!ま、待って下さい……!ま、まだ肝心の話が——」


 思考をこれ以上あや子に浸食されないために、そして大事な友人である紬希さんに手を出さないために。急いでこの場から離脱することに。紬希さんが何か言いかけてたけど……すみません、これ以上はホント無理そうなので失礼します……!







『……行っちゃった。まだ一番大事な事、聞けてなかったのに』



 Prrrr! Prrrr!



『あ……琴ちゃんからだ。……も、もしもし琴ちゃん?う、うん。紬希です。ちょ、ちょうど良かった。あのね、その……今から凄いトンチンカンな事言うと思うけど……び、ビックリしないで聞いて欲しいの。あ、あのね……私の勘違いなのかもしれないけど——』



 ◇ ◇ ◇



 ~Side:あや子~



 バカ小絃と入れ替わる羽目になった私。強敵琴ちゃんを前に、狸寝入りでどうにかやり過ごそうとしたんだけれど……


「お姉ちゃん……小絃お姉ちゃん……可愛くて美しい、私だけの小絃お姉ちゃん……♡ああ、良い匂い……汗も美味しいし……抱き心地も最高……♪」

「(助けて紬希ぃ……ッ!)」


 狸寝入りを選択した事を早くも後悔する羽目になっていた。

 私……というか小絃が眠っていると思い込んでいる琴ちゃんは、眠っていることを良いことにやりたい放題好き放題。脱がして、嗅いで、舐めて。見えないところに所有の証を付けて……『お姉ちゃん、だーい好き♡』と耳元で愛を囁いてくる。


「お姉ちゃん、私ね……こう見えて結構稼いでいるんだよ。貯金もいっぱいなんだよ。生涯にわたってお姉ちゃんに苦労はさせないよ」

「……」

「お姉ちゃんの為なら、何だって出来ちゃうんだよ。日常的な事は勿論……大人になったから出来ることも……お姉ちゃんが望むなら何だって出来ちゃうの」

「……」

「この通り……お姉ちゃん好みの身体に育ったんだよ……お姉ちゃんは好きにしていいんだよ……」

「…………」

「私を逃したら……一生後悔しちゃうんだからね……お姉ちゃんは……音羽琴と添い遂げる運命なんだからねー……お姉ちゃんは音羽琴のお嫁さんになるんだからねー……」

「(…………なんなのこの催眠学習は……?)」


 愛を囁くだけならまだ良くて。この通り執拗に耳元でブツブツと謎のアピールをし続ける琴ちゃんのお陰で、眠ってやり過ごそうにも眠れないからさあ大変。


「(まさかあいつ日常的にこんな風に琴ちゃんに洗脳されてるの……?なんであいつはこんなこと毎日されて平気なのよ……!?正直悪夢を見そうなんだけど……!?)」


 さらに困った事に。この琴ちゃんの寝込みを襲うような行為は……すでに洗脳済み(?)の小絃の身体を反応させるには十分過ぎるらしく。

 琴ちゃんが触れる度に全身が震え、琴ちゃんが抱きつくほどに胸が高まり、琴ちゃんが愛を囁くごとに脳が蕩けそうになっちゃって——


『ああ、ダメ……ダメだよ琴ちゃん……私を惑わさないで……ああ、すてきな身体の曲線が……すべすべなお肌が……たわわなお餅が……直に肌に……!落ち着いた声も脳みそをとろっとろにしちゃうし……なんかすっごい良い匂いもするし……私好みのナイスなぼでーに成長してくれてお姉ちゃんは嬉し——』


「(やめろぉ!私を浸食するんじゃないわよバカ小絃のキモい雑念……!!!)」


 この通り。自分の思考が小絃に飲み込まれそうになって……別の意味でも非常に辛い戦いを強いられているのである。まあ、よく考えてみればそれもそうか。心脳同一説の立場に立つならば『心の状態や思考プロセスは、脳の状態やプロセスそのもの』って事だし……いくら小絃ママの装置で心が入れ替わっているとはいえ、この身体……と言うか脳は小絃そのもの。

 小絃の身体が興奮したり刺激されたら、小絃の脳が外付けの私の思考を塗り替えようとするのも無理はないって事に……


「(頑張れ私……負けるな私……小絃に乗っ取られるのだけはごめんよ……!)」


 自分の思考が消えてしまうかもしれない恐怖を味わいながら、どうにか自分を鼓舞しつつ気合いで意識を保とうとする私。けれど意識を保とうと集中しようにも、集中出来ない要因がもう一つあるのもこの無理ゲーの難易度を更に上げてしまっている。

 それが何かというと……


「(こ、小絃の奴……常にこんな身体の状態だったとは……っ!あんの、バカ……こ、こんな身体でいつもあれほど暴れ回っていたの……!?)」


 ……最初は心と身体が馴染んでいないせいだと思っていた。けれど時間が経つごとに……否が応でも理解する。このバカの今の身体のコンディションを。


「(あいつと対峙した時は……弱みなんて見せたくなかったし、なんとなくあいつに負けた気になったから見栄張ってなんでもない風に演じてみたけれど……この身体、マジでなんなのよ……!?)」


 声を出そうとすれば喉がヒリつき、精一杯呼吸しようとしても上手く肺に空気を送り届けられない。常に倦怠感を抱えて、全身鉛のように重く。手足は痺れ関節は軋み、指一本動かすのも億劫になる。気分も最悪、頭痛は酷いし気持ち悪いし油断してると吐きそうで。


『いやー、琴ちゃんがリハビリに付き合ってくれてるお陰でもう大分身体も動けるようになっちゃったわ。こりゃ完全復活の日も近いねハッハッハ!』

『あの様子だとリハビリも順調みたいだね。凄いよね小絃さんの回復力。これも愛のなせる業なのかな?』


 10年前の事故から奇跡の生還を果たした小絃。その身体は琴ちゃんや私の紬希の献身的な看病とリハビリにより、すっかり元通りに——あいつ自身はそう言っていたし、看護師である紬希もそう判断してたし、なによりあれだけ(無駄に)元気に暴れ回っていたから……私もそうなんだと思い込んでいたんだけど……


「(……リハビリは、順調ですって……?とんでもない。小絃のバカ……ただ単純に、琴ちゃんの前でやせ我慢してただけじゃないの……!)」


 感心を通り越して半ば恐怖する。なんて末恐ろしい精神力よこいつ……いくら琴ちゃんに不安を抱かせたくないからって……こんな身体の状態を隠していっつも平気な顔をしてたっていうの……!?


「(まずい……これはホントにまずい……)」


 と、まあそんなわけで。寝込みを琴ちゃんに襲われる+その琴ちゃんに反応して意識を乗っ取ろうとしてくる小絃の脳+10年前の事故の後遺症に蝕まれた小絃の身体——そんな三重苦に苛まれ私の精神はボロボロなのである。

 まだ一時間と経っていないけど。このまま狸寝入りを続けるのはほぼ不可能だろう。一度心も体もリセットし、そして琴ちゃんの猛攻から逃れないと色々持ちそうにない。


「(もはや琴ちゃんに怪しまれるリスクがどうのこうのと言ってる場合じゃないわ……!)」


 と、とりあえず目が覚めてトイレに行きたくなったとかなんとか言ってこの場を離脱して……ちょっとでも琴ちゃんから距離を置かなきゃ……!


「(だ、大丈夫……ほんのちょっと会話しただけなら流石の琴ちゃんも気づくわけないし……)」


 そうと決まれば即行動。迷ってる時間はない……!


「う、うーん……」

「あっ……小絃お姉ちゃん♪おはよう。起きてくれたんだ——」

「お、おはよう琴ちゃん……ごめんねー、お姉ちゃん眠っちゃってたよ」


 今まさに目が覚めたフリをして。小絃の口調や仕草を思い出しつつ成りきる私。そんな私を前にして、琴ちゃんは一瞬笑顔になって……


「…………」

「ええっと……琴ちゃん……どうかした?」


 そしてその笑顔のまま、何も言わずに固まってしまう。……え?えっ?な、何この反応……?


「こ、琴ちゃん……?その、悪いんだけど私……トイレに行きたいんだけど……」

「…………」

「あ、あの……こ、琴ちゃん?」


 まるで時を止めたように。私を笑顔のまま見つめる琴ちゃんに少し恐怖を覚える。お、おかしいところなんか……ないわよね私……?い、今もちゃんと小絃になりきってるわよね?まさかこの数秒でバレたなんてそんなまさか……


「……ええ、大丈夫ですよ。いつもみたいにご自由にお使いください」


 そんな一抹の不安を抱えた私に、ようやく再起動したような琴ちゃんはにっこりとそう告げる。あ……良かった……大丈夫そうね……


「私ちょっと電話しなくちゃいけない場所があるので、気にせずごゆっくりお使いください」

「あ、ああうんありがと。それじゃ遠慮なく……」


 ほっと胸を撫で下ろしつつ。痛む身体に鞭を打ち、トイレへと逃げ込む私。ふぅ……良かった。とりあえず第一関門は突破したみたいね。……まだまだ先は長いけど。







『…………なるほど。となると……十中八九、紬希ちゃんのところかな?とりあえず電話してみよう』



 Prrrr! Prrrr!



『あ、もしもし紬希ちゃん?うん、私。琴だよ。急に電話してごめんね。…………うん、うん。ああ、やっぱりそうか。大丈夫、笑わない。そうだね……多分だけど……紬希ちゃんの想像通りだと思うよ。つまりお姉ちゃんとあや子さんが——』

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