第53話 遠い海より来たりて
水麻窟は不思議なところだった。
建物の中は下り階段で、左右には海の水がゆらゆらと揺れている。
マーメイドの魔法で、水と建物が合わさっているような状態が維持されているのだ。
「いらっしゃい。お探しのものはなぁに」
横合いの水から、マーメイドが顔を出した。
さっきのマーマンよりも小柄で、女性らしい姿をしている。
「ここに憲兵が一人迷い込んだはずなんですが、わたくしたちは彼を探しているのですわ」
「憲兵?」
マーメイドは顎に指先を当てて少し考えた。
「人間の世界のお仕事はよく分からないな」
「時折こちらを訪れる人間はいませんでしたか? 例えばこのような色の服を着た……」
憲兵の制服の色を説明するシャーロット。
でも、オッペケ以外の憲兵も来てたら、マーメイドには見分けがつかないんじゃないだろうか?
私の抱いた疑問に対して、シャーロットはウインクして見せた。
「問題ありませんわ。憲兵は見回る地域が決まっていますの。だからこそ、該当の憲兵の様子がおかしくなれば、その地域で何かがあったと分かるんですのよ。オッペケ氏も時間をかけて調べれば、この水麻窟が浮かび上がってきたでしょうけれど、今回は時間がありませんもの」
時間が無いとはどういうことだろう?
「ああ、その服の人間ならいたいた! こっちよ!」
階段脇の水の中を、マーメイドが泳いでいく。
私たちはその後を追って、階段を下っていくのだ。
暗い中に、ランプの灯りが踊る。
照らされるのは灰色の階段と、真っ青な海の水。
何人ものマーメイドが泳ぎ回り、あちこちの踊り場に座り込んだ人々が、パイプから煙を吐き出している。
麻薬をやっているんだろう。
「戦うわけでもないのに、どうしてやるのかしら」
「現実を忘れるためですわね。言うなれば彼らは、厳しい現実と戦って疲れ果てているのですわ」
「なるほど、そういうこと……」
辺境でも、激しい戦闘で傷ついた兵士は、悪夢にうなされることが多い。
彼らの気持ちを落ち着かせるために、少量の麻薬が使われたりはする。
それを自分でやっているということ?
私はそのように理解した。
そして気のせいだろうか?
ランプの灯りに照らされる彼らのシルエットは、どこか人間離れして感じる。
「完全に戻れなくなる前に、連れて行かねばなりませんものね」
シャーロットが気になることを言った。
その言葉の意味は、すぐに分かることになる。
水麻窟の半ばほどで、憲兵の服を着た男がうずくまっていた。
傍らには、パイプが転がっている。
「オッペケさんですわね」
シャーロットが声を掛けると、彼はとろんとした目つきで顔を上げた。
その顔を見て、私は目をみはる。
人間の顔ではなかったからだ。
鼻がなく、のっぺりとした顔は前に突き出し、両目が顔の両脇に離れている。
これは魚の顔だ。
「シャーロット、違うんじゃない?」
「この建物の中に、他に憲兵の服を着た者がいれば違うかも知れませんわね。どうかしら?」
傍らを泳いできたマーメイドに尋ねるシャーロット。
マーメイドは、「他にはいないよ?」と告げた。
「ということで、消去法的にオッペケ氏はこのお魚さん以外にありえませんわね。さあオッペケ氏、外に出ますわよ」
「うう……」
シャーロットに腕を取られ、立ち上がるオッペケらしき魚の顔の男。
反抗する意思は無いようだ。
シャーロットが彼の手を引き、私は彼の背中を押して、水麻窟の外に出ることになった。
「ねえねえ、あなたも一服やっていきなさいよ」
「海の美しさが分かるようになるお薬よ」
「地上にいるなんてもったいないわ。あなたも海の中においでよ」
マーメイドが不思議な囁きを投げかけてくる。
「ねえシャーロット。彼女たち、とっても精力的に勧誘してくるんだけれど」
「それが彼女たちの仕事ですもの。お仕事の時間中は、きちんと仕事をする模範的な店員なのですわ」
そういうものなのかな?
明らかに危険なものを感じるんだけど……!
とにかく、彼女たちの言葉に耳を貸してはいけないとシャーロットが言うので、私はマーメイドの囁きを聞き流しながら外に出た。
オッペケと見られる魚の男を馬車に押し込む。
うーん、魚くさい。
そのまま、馬車は憲兵所まで到着した。
中で書類を片手に、何かわめいていたデストレードを捕まえる。
「ねえデストレード。ご依頼のオッペケを連れてきた……っぽいんだけど」
ちょっと自信なく私が言うと、デストレードが目を光らせた。
「本当ですか。実に迅速です。あなたに依頼をして正解でしたねえ」
馬車の中を覗き込んだデストレードは、顔をしかめる。
「魚くさい! これは急激に変化したものですね」
「ですけれど、短期間しか摂取していないようですわ。牢に入れて放置しておけば戻りますわよ」
「ええ、そうしましょう。ご協力に感謝を」
魚の顔の男は、牢に閉じ込められることになった。
彼はぼーっとしながら、宙を見つめている。
私には未だに、彼が人間だとは信じられなかった。
人間が魚になってしまうものだろうか?
「水魔、と言う麻薬がございますの。効果は強いものですけれど、副作用も強いのですわ。だから、入り口でマーマンが注意するように、と言ったのでしょうね。水麻窟は良心的な売店ですわねえ」
良心的……?
全くわからない世界だ……!
結局その日は、これで解散となった。
翌日はアカデミーも休み。
私は迎えに来たシャーロットとともに、憲兵所へ向かった。
そして昨日、魚の男が入っていた牢を覗きに行くと……。
そこには、憲兵服姿の中年男性が、ぐうぐうと眠っていたのである。
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