第132話・サレン・バックマイヤー⑤

 彼女が施設にやって来たのは、何時の話だっただろうか? 一つ咳き込みながら、新しい子が来る、と言った施設の管理人の顔を思い出した。


 筋骨隆々の偉丈夫で、禿げ上がった頭とは裏腹に髭もじゃのオヤジだったはずだ。


「えー、本日より皆の仲間になるサレン・バックマイヤーちゃんだ。皆、仲良くしてやるんだぞ?」


 ハーイ、という声が幾つも上がる。男子女子入れ混じった、不揃いの声だった。


 レインは当時十二歳。施設内で最年長だった。施設の建物の中、オモチャが幾つか置いてある少し広い遊び場の様な所に集まって、あのオヤジはそう言ったのだった。


 集まった子供の一番後ろで、レインはオヤジの足元に隠れるサレンの姿を見つめていた。オヤジが前に出る様に手で促すと、彼女は着ていたワンピースの裾を握りしめながら、うつ向いたまま二歩、足を前に動かした。


「……サ、サレン、です。これからよろしくお願いします」


 顔を赤らめ、蚊の鳴くような声で彼女はそう言った。声は震え、口元の動きは俯いていて分からない。当時、サレンの自己紹介を聞き取れた者は、レインの他に居なかった。


「え? 何?」

「何て言ったの~? もっかい言って~」

「オヤジ、聞こえないよ~」


 か弱そうな彼女に対し、子供らの容赦ないヤジが飛ぶ。なだめるオヤジにお構いなく、男児はサレンに突っかかり、女児は女児同士でひそひそ話を始めた。


 サレンの握った手が震え始める。ギュッと瞑った目から今にも涙が流れ落ちそうだった。


 レインはわざと周りに聞こえる様に溜息を一つ付き、その場を制する声量で言った。


「サレン。サレン・バックマイヤー。ソイツはそう言ったんだ」


 子供らは水を打ったように静かになり、部屋中の視線が壁にもたれ掛かっていたレインに集中する。その視線の中に、サレンとオヤジの物も混じっていた。


「え~聞こえなかったな~」

「声ちっちゃすぎ~」

「そうだよ! もっと大きな声で喋れよ!」


 一人の女児が言ったのを皮切りに、再び子供らが騒ぎ始める。


「おいおい、一番後ろの俺に聞こえたんだ。聞こえなかった奴は耳が悪いのか、単純に聞いてなかったかのどっちかだろ」


 レインがうんざりした様子で言った。実際、彼はうんざりしていたのだ。彼の施設では、新しく入った子をからかうのが伝統だった。場合によってはいじめに発展することもしばしばあった。


 実際、レインが施設に入った時、彼自身もからかわれたり、水を掛けられたりしたことはある。しかし、その当時から威勢のいい彼の事だったので、そのたびに、それなりのを彼はしてきた。


 相手が年上だろうが、自分よりの身体が大きなヤツだろうが、お構いなしだった。おかげで彼は、年齢が二ケタになるまで、いつも体の何処かに青あざや絆創膏の絶えない子供だったのだ。


 しかし、誰が始めた伝統か知ったこっちゃないが、彼はそれに乗っかるつもりは毛頭無かった。

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