第20話

 気づいた時には、俺は殴りつけていた。ユメハを、ではない。うずくまった彼女の頭上の壁面を、だ。


「畜生‼」


 どうしてユメハのみならず、自分も声を荒げているのか。正直分からない。だが、途方もないもどかしさを覚えていたのは確かだと思う。

 自分を慕ってくれている少女を助けてやれない。彼女の苦悩を前に、何の役にも立てない。俺は目を閉じ、ぎりっと奥歯を鳴らした。

 やはり両親に見放されるような人間には、ユメハを前にしても、何もできることはないのだろうか?


「……ごめんよ、ユメハ。俺はお前を、守ってやれない……」


 俺はようやく、自分の頬を生温かい水滴が伝うのを感じた。

 どうして俺は泣いているんだ? アンドロイドの気持ちなど分からないのだから、感情的になることもできないだろうに。


 直後、はっとした。生温かいのとは異なる、安らかな温かみを帯びた何かが俺の頬に触れたからだ。

 瞼を開けると、顔を上げたユメハと目が合った。一瞬、俺は今の状況を忘れた。ユメハの瞳に込められた一途さに、心臓を鷲掴みにされたのだ。


「私のためになんて、泣かないでください。私はただのアンドロイド――」

「知るかよ……。お前が人間かアンドロイドなのかなんて、知ったことかよ‼」


 ユメハはその大きな瞳を、これでもかと見開いた。


「お前の記憶が偽物なら、俺はそれを塗り替えられるくらいそばにいてやる! だから泣くな! いや、泣いてもいいけど、いい加減泣き止め!」

「イサム……様……?」

「あと、これ以降俺に『様』はつけなくていい。いや、つけないでくれ」

「イサ、ム」


 俺はひざまずき、今度こそそっと掌をユメハの頭に載せた。


「それに、お前の記憶が移植されたものだなんて、俺は信じない。お前の振る舞いを見ていたけど、あまりにも自然なんだ。生物工学は得意じゃなかったけど……。でも、もし記憶の移植がされてたりしたら、俺はお前を好きになったりしない」

「……ほんと?」


 あ、しまった。

 俺は再び息が詰まった。勢い余った結果とはいえ、告白してしまった。そしてその直後に、こんな近距離で見つめられている。場違い甚だしいが、俺は思いっきり赤面していた。


 慌てて手を引き、俺は立ち上がった。

 それからごくりと唾を飲んで、再び膝をつく。そして、断言した。


「ああ。本当だ。俺はお前が好きなんだ」


 告げたと同時、ユメハはその上半身を俺の肩に預けてきた。


「ちょっ、ユメハ?」

「ありがとう、イサム……。ちょっと、こうしていてもいいですか?」

「お、おぅ」


 俺はそっとユメハの肩に手を載せて、しばしそのまま膝をついていた。

 心を病んだ幼い姫を支える若き騎士。いや、それは美化しすぎか。


 それでも俺は、我ながら根気よくその姿勢を保ち続けた。案の定、くるぶしや膝小僧のあたりが痛んでくる。だがそれも、ユメハの穏やかな顔を見直す度に癒されていく。


 今までジェット・ブラスターこそ自分の恋人のように思っていたが、どうやらそれも今日までの話になるかもしれない。


         ※


《こちら艦長、バリー・ハミルトン。これより本艦は、ワームホールに突入する。総員、耐衝撃区画へ移動し、手順通りに安全姿勢を取ってくれ。繰り返す――》


 俺ははっと目を覚ました。艦内放送で、バリーの声が響いている。


「ん……」


 微かに揺らぐ視界、歪む音声、浮つく四肢感覚。俺はそれを、両頬を引っ叩くことで正常に戻した。

 どうやら俺は眠ってしまっていたらしい。


「ここは……」


 そうだ。ユメハの部屋だ。俺は一つ一つ、寝落ちするまでの過程を振り返った。そして、大きな違和感にぶつかる。


「あれ?」


 俺はユメハの前に屈み込んでいたはず。それがどうして、ベッドに横になっているのだろう?


 寝ついた姿勢のまま、俺はふと首を真横に向けた。すると悲鳴を上げるよりも早く、呼吸が停止した。

 ユメハが、俺と同じベッドに横たわっていたのだ。今はすぅすぅと寝息を立てている。

 間近に迫った美貌に、俺はやはり声も出せずに驚いた。


 俺は必死に自らの服装を確かめる。着衣に乱れはなし。ユメハもそうだ。

 そうか。寝落ちした俺を、ユメハがベッドに担ぎ上げてくれたのだ。しかし、何故わざわざ隣で眠るなどという、誤解を招きそうな行動に出たのか?


 ええい、考えるのは後回しだ。今はバリーの指示に従い、早急に耐衝撃区画に向かう必要がある。


「ユメハ、おい、ユメハ。起きてくれ」

「ん、あぁ……。イサム様、じゃなくてイサム……」


 いつものメイドっぷりは鳴りを潜めている。そのまま目をぱちくりさせながら、上半身を起こすユメハ。


「あー、一つ訊きたいんだが」

「は、はい、何でしょう?」

「俺がお前の隣に寝かされてるのは、誰の仕業だ?」

「私です」

「俺のことは放っておいて、自分だけでベッドを使えばよかっただろう?」

「そうは参りません。イサムは大切なご主人様ですから」


 ううむ、ご主人様、か。なかなか破壊力のある言葉だ。


「仮に百歩譲って、俺がベッドを使うにしてもだ。それならどうしてお前まで同じベッドにいるんだよ?」

「体力と精神力安定のために、適当な柔軟性を有する素材の上で休むべきだと判断したからです」

「……なるほど」


 あっさり論破されてしまった。とりあえず、いかがわしいことがなくて幸いだった――と言おうとしたのだが。


「ん?」


 右腕が動かない? 何かに強く圧迫されている。俺が左腕だけで上半身を起こすと、


「ッ⁉」


 俺の右腕、確かに動かなくなるわけだ。ユメハに両手でぎゅっと握り締められていたのだから。しかもその右腕は、しっかりとユメハの胸に押し当てられている。

 俺は自分の顔が灼熱しているか、あるいは真っ青になっているか、判断がつきかねた。


         ※


 という喜劇的イベントの最後に、俺とユメハは大慌てで距離を取った。互いに無言のまま、服装の乱れを正し、耐衝撃区画に向かう。

 スライドドアを抜けると、そこはやや手狭なブロック状の空間が広がっていた。


「遅いぞ、イサム。それにユメハも」

「すまない、バリー」

「申し訳ありません、艦長」


 責めるように言葉を紡ぐクリス。しかしその口調には、どこか安堵感に似たものが混じっている。


「二人共、向かって右奥の二席を使え。耐ショック姿勢の取り方は分かるよな?」


 俺たちが無言で頷くと、バリーは無言で空席の方を顎でしゃくった。


「ブリッジより耐衝撃区画へ操縦系統を移行。これより、外宇宙艦船航行用のワームホールを使用し、地球へ向かう。強い揺れと発光現象に注意しろ」


 そう言って、バリーは眼前のディスプレイを操作。スペース・ジェニシスを自動操縦に切り替える。


《最寄りのワームホールを確認。突入まで、残り三十秒。衝撃に備えてください》


 機械音声に従い、俺は頭を膝の間に挟み込んだ。それに加えて、後頭部に手を載せるようにすれば耐ショック姿勢の完成だ。


 そもそもワームホールというのは、人類が宇宙開拓時代に至り開発した、高速交通手段である。真っ白な渦巻き状の外見をしており、そこを通過することで、対応するもう片方のワームホールから排出される。そうして素早く目的地へと到達できるというわけだ。


 そういえば、俺もバリーも使うのは久しぶりだったな。それを思い返して、俺は一際強く目を閉じた。


《まもなく、ワームホールに突入します。再度耐ショック姿勢を確認してください。突入まで、五、四、三、二、一》

「ッ!」


 俺は思わず歯を食いしばった。思ったより振動が大きかったのだ。それでも機体が回転せず、酔いづらいのが幸いだと思うべきか。


 体感時間としては、十数秒間といったところだったと思う。さあっ、と空間が切り開かれるような音がして、振動が止んだ。


《ワームホールの通過を確認しました。現在本艦は、太陽系第三惑星・地球周回軌道に到達しております》


『ナビゲーションを終了します』と言って、機械音声はぷっつりと止んだ。


「よし、皆もういいぞ」


 顔を上げるバリー。艦長が率先して安全を宣言してくれたのだから、本当に大丈夫ということだろう。


「一旦ブリッジに上がる。皆、来てくれ」


 その声に従って、俺たちはぞろぞろと、無言で廊下に出た。


         ※


 たたたっ、と前方で音がした。顔を上げると、エリンが駆け出すところだった。きっとバリーが、ブリッジからなら地球を目視できると教えたのだろう。

 珍しいのは、ここまでリュンが俺たちと行動を共にしているところだ。


「なあリュン、整備ドックに戻らないのか?」

「悪いか? あたいだって、地球には興味があるんだ。自分たちはアンドロイドだってことだが……。それでもルーツは、培養カプセルの中じゃなくて、地に足が着くところだからな」

「そう、か」


 俺は曖昧に頷いた。

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