第10話
理由は分からないが、この風呂場というのは妙な趣向で造られている。いや、日本人の血を引く俺にとってはあまり違和感がないのだが、いわゆる銭湯のような仕様なのである。
広い浴槽を挟んだ正面のタイルに、でかでかと富士山が描かれている。地球に降りた時に見た景色が再現されているのには、正直驚かされた。
いわゆる浮世絵の要素も入っているから、写真のようにそっくりそのまま、というわけにはいかないが。
「あの景色を思い出せば、少しは気も晴れる、か」
そう呟きながら、俺は宇宙服を脱いだ。通常の衣服と宇宙服を分け、それぞれ専用の洗濯機に放り込む。手拭いを片手にがらりと戸を開ける。その時だった。
「あ?」
「え?」
どちらがどちらの声かは分からない。とにかく、浴室には二人の人間がいた。ずばり、俺とユメハだ。互いに一糸纏わぬ姿である。
待て。待て待て落ち着けイサム。こういう場合、女の子が石鹸やらタライやらをぶん投げてきて、俺が痛い目を見て終わる。それが人類史的ルーティンだ。
俺は相応の罰を受け、このトラブルは幕引きとなる。
しかし、相手が悪かった。凄まじい戦闘能力を有しているといっても、ユメハはメイド。俺が主人である。暴力沙汰に出るのは躊躇われたようだった。
「……すみませんでした」
俺は手拭いを腰に巻き、深々と頭を下げ、退室を試みる。だが、ここで思いがけない事態が発生した。
「あの、イサム様、お背中お流ししましょうか?」
「ぶふっ!」
俺はユメハに背を向けたまま、前のめりにぶっ倒れた。
こういう場合、俺が糾弾されて然るべきだろうに、何故だかユメハは怒らない。しかも背中を流すって……。いつの時代の宮廷女官だよ。っていうか、そんなことしてた人なんていたのかよ。
そんな贅沢……じゃない、卑しいこと、俺は望んじゃいないぞ。
「あっ、報告が遅れました。傷の方は、大事には及びませんでした。軽く医療用のホチキスで留めて、上から包帯を巻いております」
その言葉に、俺の煩悩は綺麗に消し飛んだ。
「ほ、本当か⁉」
振り返ると、胸から長めのタオルを巻いたユメハの姿が目に入った。確かに、上気した肌やお湯の滴る髪などは実に色っぽかったが、いやらしくはない。
「えと、その、イサム様がお望みであれば傷口をご覧いただいても――」
そう言ってタオルを広げようとするユメハから目を逸らし、
「だっ、大丈夫だ! キュリアンがちゃんと処置してくれたならそれでいい!」
と声を張り上げた。そして話題は遡る。背中を流してもらうのか否か。
そういえば、ユメハたちの生い立ちを聞いたことはなかったな。風呂なら他人に聞かれる心配もないし、また、俺は自分の半生を既に語ってしまったし、話を聞いてみるにはいいタイミングかもしれない。
「そうだなユメハ、もし気分を害されるようなことがなかったら、背中、流してくれるか?」
すると、ユメハは胸元で両手を合わせ、
「かしこまりました、ご主人様!」
と言って健気な笑みを浮かべた。可愛すぎるぜ、チクショウ。
※
ごしごしと背中をスポンジで摩ってもらいながら、俺はユメハの話に聞き入った。
ユメハもまた、物心ついた頃には施設に預けられていたらしい。だが、俺とは大きな相違点が一つある。
ユメハが預けられたのは、軍直轄の、兵士の育成施設だったということだ。
「お前の両親、どうしてそんなところにお前を置いてったんだろうな?」
「さあ、私には両親の記憶がなくて……。申し訳ありません」
「いや、ユメハが謝ることじゃないさ。しかし、出来すぎてる気はするな」
「と、申されますと?」
「ここ二、三十年、人類はエネルギーの枯渇の怯えながら生活してきた。再生可能エネルギーを使いこなせるようになったからって、油断していたんだな、きっと。どんなエネルギーだって、完全に需要をまかなえるって保証はない」
「それで、危険な外宇宙に資源探索の手を伸ばした……」
「そうだ。しかし、それは単独のプロジェクトとしては、あまりに規模が大きすぎた。だからなんだろう、最初に危険を排除するために、俺たち軍から先遣隊を捜索に出す、っていう決まり事ができたのは」
「……」
「ん? どうした、ユメハ?」
鏡に映った彼女の姿を見つめる。俯き、背中を流してくれるはずのスポンジを握った手は止まっていた。
「私たちだけで……」
「どうした?」
「私たちメイドだけでよかったんです、こんな危険な任務にあたるのは」
「おいおい、突然何を言い出すんだよ」
俺は上半身を捻り、直接ユメハを視界に入れた。全身を微かに震わせ、必死に泣くのを堪えているようにみえる。
「確かにお前たちは優秀かもしれないけど、自分たちだけ、って決めつける必要はないだろう? まあ、さっきの俺みたいに、皆に迷惑かけてちゃ追い出されても仕方ねえけど……」
「違うんです!」
ユメハはバッサリと言い切った。
「イサム様たちは、私たちに迷惑などかけておりません! ただ、この任務が危険で、かつどうしても必要なものであるのなら、身分の低い者が担当するべきだと思った次第です」
『勝手な言い分、お許しください』と言って、その場で正座をするユメハ。三つ指をついて深々と頭を下げる。
「い、いやあ、そんな! 勝手な言い分だなんて――」
と言いかけて、俺は違和感を覚えた。『危険な任務は身分の低い者が担当するべき』とユメハは言った。どういう意味だ?
俺は上半身を戻し、再び鏡に映ったユメハを見た。その顔には、『しまった!』とでもいうべき表情が浮かんでいる。
「なあ、今の宇宙連合憲章では、人権は絶対平等ってことになってるんだぜ? どうして身分の話なんか――」
「私、もう上がります。艦の航行に支障が出るといけませんので」
さっさと立ち上がり、戸を引き開け、ユメハの姿はその向こうに消えた。
「……何だってんだ、一体?」
※
「おう、随分と長風呂だったな、少尉殿」
「あー、悪いな、リュン。女性の方が衛生的なことは気にかけるよな。お前たちに先に風呂を貸してやればよかった」
「なんだ、あたいがつけようとしてた文句の内容、ぜーんぶ先取りしてんじゃねえか」
風呂上りにドックに行った時のこと。ジェット・ブラスターの雄姿を見て気持ちを落ち着けようとしていた俺に、リュンが突っかかってきた。
それも当然だ。戦闘事態中に仲間を危険に晒し、実際に負傷させたのだから。
だが、俺がそれについて語り出す前に、リュンの方から話題を振ってきた。
「ユメハの奴、軽傷だったって?」
「そうらしい。キュリアンのお陰だ」
「そいつはもっともだな。ちゃんと礼を言っとけよ」
「ああ、もちろんだ」
するとリュンは勢いよく跳躍し、ジェット・ブラスター二号機の改修作業を始めた。
俺はしばらくその様子を見つめていた。バチバチと爆ぜる白い燐光に、特有のオイルと金属臭さ。このよさは、ドックに入り浸っている人間にしか分からないだろうな。
さて、リュンの言う通り、そろそろ医務室に行っておくか。
そう言えば、医務室の中はどうなっているのだろう?
さらに言えば、俺が一度でも、スペース・ジェニシスの医務室に運ばれたことがあっただろうか?
「そういやなかったな……」
場所だけは把握していたので、俺は数回階段の上り下りを繰り返し、赤い十字の書かれた白い扉の前に立った。
ドアわきにあるインターフォンに顔を近づける。すると、すぐに反応があった。画面にキュリアンの顔が映る。
《あらイサム様、どうかなさったの? 負傷を?》
「いや、違うんだ。お前――じゃなくて君に、話がある」
《よろしいですわ。今ドアを開けますわね》
すると、ドアはすっと真横にスライドした。軽く深呼吸してから、ドアの向こう側に入り込む。
一言で言えば、奇妙な空間だった。部屋の照明は薄暗く設定されていて、何やら不思議な香りがする。お香でも焚いているのだろうか。
中央に手術台、両脇にアシスタント機材が並び、さらにその奥にキュリアンの椅子があった。今、その背もたれにはエリンが身体を預け、複数あるディスプレイのうちの一つを観ながら笑い声を上げている。子供向けのアニメ番組を観ているようだ。
「それで、どうかなさったの、イサム様? わたくしに用事がおありなんでしょう?」
「あ、ああ」
ディスプレイが沈黙すると、嫌というほどの静けさが俺の全身を圧迫した。それでも、きちんと言わなければ。
「さっきはすまなかった、キュリアン。俺がエリンの銃を奪ったりしなければ、ユメハが怪我することもなかったし、君の手を煩わせることもなかったのに」
するとキュリアンは足を組み、膝の腕に肘を載せた。さらに手首の上に顎を載せ、うーん、と唸った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます